信長は自害か、それとも焼死か
一方で「他の者」の話としてフロイスは「彼(信長)はただちに御殿に放火し、生きながら焼死した」との説も載せています。この場合は切腹ではなく「焼死」説ですが「火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない」と付記されています。要は信長が切腹したのか、焼死したのか、どのようにして死んだのか、誰も分からないというのです。
これまで『信長公記』『天正記』『多聞院日記』『フロイス日本史』などの記述を紹介してきましたが、それら著者の中で信長の死に様を見た者は誰もいないのです。いずれも誰かが話した情報を書き記したに過ぎないのです。よって信長が切腹したのか、焼死したのかは今後も確定できない可能性が高いでしょう。
フロイスは「我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである」と述べていますが、光秀軍が信長の遺体を発見することができなかったのは、本能寺が炎上し、信長の身体がこの世に残らなかったことが大きな要因でしょう。信長以外にも焼け死んだ人々が多くいる中で、焼死体から信長を判別することは困難だったとも思われます。
森乱丸が遺骸を確実に燃やした?
江戸中期に成立したとされる逸話集『祖父物語』(尾張国清須朝日村の柿屋喜左衛門が祖父の見聞談を書き留めた聞書)はこう伝えます。
「信長公の御死骸の上ヘ畳五六帖、森乱丸きせ申由し申伝なり」
本能寺で信長に付き従っていた小姓の森乱丸(蘭丸)が切腹した信長の遺体に畳を5、6枚かぶせ、確実に燃え尽きるようにしたというのです。
同書には「(本能寺の)門外小川のはたの石の上に首十三あり。森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋ノ庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭にて鷹ノ尾羽つきて名人の沙汰あり」と続け、森乱丸が主君の首を明智方に奪われないようにしながら、みずからは弟2人と共に討ち死にして首を取られたと記します。

