信長は討ち死と書いた史料もある

江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵の著作『信長記』(『信長公記』より史料的価値は低いとされる)には『信長公記』と同様、本能寺には「女房達(侍女のこと)、下女」が付き添っていたとあります。そうした女性たちに対し、信長は「女は苦しかるまじいぞ、急ぎ出でよ」(女たちは構わぬ。急ぎ逃げよ)と脱出を促したのでした。

『信長記』によると、信長はその言葉を「三度」も発したとのこと。『信長公記』には三度までとは書かれておらず『信長記』の方が信長の女性たちを逃がしたいとの想いが強調されています。

『多聞院日記』(戦国〜江戸初期の興福寺多聞院院主の日記)にも信長の死について記されていますが、それは信長が京都において「生害」(自害)したと極めて簡潔です(天正10年6月2日条)。