「白髪の鼻毛」に怯える私たち

ではなぜ、私たちはここまで「無害」であろうと汲々きゅうきゅうとするのか。それは、おじさんという生き物が、放っておけば下心といやらしさに満ちた存在として見られている、と過剰に意識しているからではないか。

思い起こせば30年ほど前、世間は、渡辺淳一の小説『失楽園』で盛り上がっていた。日本経済新聞の朝刊に連載されていたのが信じられないほど、性描写がふんだんに盛り込まれ、不倫を描いた作品だった。1997年にはドラマ化、映画化され、世間には、その主人公の中年男性への嫉妬と羨望と侮蔑の入り混じった論評があふれた。

『失楽園』に加えて、当時、女子高校生を相手にした「援助交際」が社会問題として取り沙汰されていたのとあいまって、中年男性は不倫をするもの、若い女性を性的なまなざしで見つめる輩だとされてきた。

もちろん、「エロおやじ」は古今東西どこにでもいる。同じころ、高校生だった私が読んだ、漫画家・南Q太氏の作品を、いまだに忘れられない。年上の既婚男性とセックスをしていた若い女性が、ふと相手の顔を見て、心の中で「あ、鼻毛出てる、しかも白髪」とつぶやく場面が忘れられない。どれほど親しい関係であっても、若い女性からの視線はそこまで冷めている。

にもかかわらず、私たち中年男性は、あるかもしれないし、ないかもしれない「白髪の鼻毛」に怯えている。下心や身勝手さが一瞬で見抜かれ、不審者としてブザーを鳴らされる、そんな事態を恐れているのである。「おじさん構文」がネタにされるたび、私たちはビクビクするほかない。

しかし、ここで一度、落ち着いて考えてみたい。私たちは、本当にそこまで見られているのだろうか。

若者は「おじさん」を敵視していない

いまの中年男性は、少し気にしすぎなのではないか。

「おじさん構文」ひとつをとっても、かつては、はっきりとした嫌悪や憎悪の対象だった。それが、いまや若者に「スルー」されたり、笑いのネタとして消費されたりする対象へと変わってきているのではないか。本気で相手にされていない、と寂しく受け止められもしよう。けれども、裏を返せば、それは、いちいち本気で敵視しない、という、いまどきのやさしさでもあるのだろう。

女性は、さまざまな(嫌な)社会的経験を通じて往々にして、男性からの性的な視線やノイズをやり過ごす術に長けている。長けているから問題ない、わけでは、まったくない。絶えることのない痴漢をはじめ、ストーカー、性犯罪と、女性が男性に警戒心を強めるのは、相応の理由と、社会環境と、これまでの歴史がある。

だからこそ女性は、どの(中年)男性が危険で、反対に「無害」なのかを瞬時に認定する能力を鍛えられているのではないか。それは、たしかに褒められるべき傾向ではない。男性が女性に危害を及ぼしている証拠だからであり、及ぼしかねない予備軍もまた多い証左だからである。