恋愛にもローリスクと合理性が求められる時代
【落合】先日、大学の落合研究室のOB会に行きました。卒業生たちはけっこうな割合で結婚をしていたのですが、その人たちの出会いの多くがマッチングアプリでした。彼らは「いまどき職場恋愛なんて危険なことはしません」と言う。ハラスメントのリスクもあるし、別れたあと気まずくなりますから。他者を求めるときに、ほどよく距離が遠くて気の合いそうな人を、最もリーズナブルに探せる方法として、マッチングアプリが最適なものとして選ばれているのです。
たしかにアプリなら、条件によってフィルタリングして、効率よく相手を探せます。出会いはカフェや飲み会にはありません。物理的な衝突が起こって、偶然目が合って恋愛がはじまるわけではなく、機能が先行して恋愛がはじまる。すでに、リアルな公共空間から生まれた恋愛によって人類が再生産されているわけではなくなっている、というのはおもしろいなと思います。
祭りに参加して、みんなでワイワイやって、気が合う異性を見つけるよりも、スマホアプリのなかでAIのサポートを受けながら見つけるほうがはるかに早くて効率的なのです。コストパフォーマンスがいいからそちらを選ぶ。非常に合理的です。ただし合理性を突き詰めると、どんどんディストピアに近づいていくのもまたたしか。事の是非はともかく、合理性をとってディストピアを受け入れるという判断が、恋愛の現場では多く採用されているのです。
「最適化された生き方」から「堕落」せよ
【落合】そう考えると、「堕落する」というのは、かなりのエネルギーが必要なことのように見えます。合理性に基づかず、社会のレールから外れるわけで、そこには常に摩擦熱が生じますから。
現代的に「清く生きる」というのは、恋愛にはマッチングアプリを使ってください、コンプライアンスを守ってください、健康に気を遣ってください、ということだと思います。それがいまの「正しさ」であり、「最適化された生き方」です。
対して現代における「堕落する」とは、マッチングアプリを使わずに渋谷のセンター街でナンパすることだったり、深夜にラーメンを食べることだったりします。これは効率が悪いし、健康にも悪いし、社会的なリスクもある。コストパフォーマンスは最悪。効率だけを求めて漂白された人生が本当に「生」なのか。それとも非効率で汚れた堕落の路にこそ「生」があるのか。
