「千利休の最初のパトロン」説も
長慶は文化的なセンスや教養も高く、和歌や漢詩にも通じ、長慶作の連歌は全31巻も残されている。弟の実休(義賢)とともに盛んに茶の湯の会や連歌の会を開き、公家、高僧、大商人などの教養人とも交流を重ねた。
茶の湯をはじめとする中世文化が専門の歴史学者である永島福太郎は、千利休は信長に接する以前、長慶の保護を受けて室町幕府に仕える茶匠になろうとしていたのではないか? という説を唱えている。
文武ともにイケていた長慶だったが、1561年以降、弟の十河一存、嫡子の義興ら一族の有力者が相次いで没し、三好政権は急速に弱体化してしまう。最終的に長慶は家臣の松永久秀に実権を奪われ、1564年に43歳で没する。
なぜ長慶の功績が評価されなかったのか
以上のように、かなり業績の幅広い長慶だが、戦国武将としての人気はイマイチだ。なまじ最初から権力の中枢に近い場所にいたので、たとえば毛利元就、武田信玄、上杉謙信らのように、地方から成り上がったという物語性が弱いのだろう。
織田信長の華々しい戦歴の第一歩といえば、やはり1560年の桶狭間の戦いだ。このとき信長の手勢が3000人、対する今川義元の軍勢は2万5000人といわれる。
そして、尾張(現在の愛知県西部)1国を支配する信長が27歳の若さで、駿河(現在の静岡県中部)、遠江(現在の静岡県西部)、三河(現在の愛知県東部)の3国を支配する今川義元に勝ったのだ。多くの人が「歴史的な大勝利だよな」と思うだろう。


