信長が今川を破る一方、中枢8国を支配
事実上の三好政権が成立して以降も、晴元と将軍の足利義輝は逆襲をはかったが、長慶はこれを退け、義輝らの幕府要人を近江(現在の滋賀県)へと追いやる。のち長慶と義輝は潜在的対立を抱えつつも和睦し、義輝は長慶の懐柔をはかった。これも何やら、のちの信長と足利義昭が互いを利用しようとしていた関係にちょっと似ている。
ついでにいえば、のちに信長に仕える松永久秀も三好氏に仕えていた。とかく裏切りをくり返したイメージの強い久秀だが、長慶の死後も律義に後継者の義継を補佐している。
信長がやっと桶狭間の戦いに勝利した1560年の段階で、長慶は、摂津、山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨の8国を支配下に置いていた。おおむね現在の大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、香川県、徳島県の範囲にあたる。
当時、上り調子だった関東の北条氏、中国地方の毛利氏も、支配下に置いた地域の広さ、そこから得られる石高(財力)、ほかの武将への影響力など、いずれも三好氏には及ばない。
堺は絶賛されるほどの商業都市に
長慶は将軍家の関係者など旧来の有力者が多かった京都ではなく、摂津の越水城(現在の兵庫県西宮市)、芥川城(現在の大阪府高槻市)、河内の飯盛城(現在の大阪府四條畷市)に拠点を置いて政務を行った。
この点も、京都ではなく近江(現在の滋賀県)に安土城を築き、新たな政治の中心地にしようと考えていた信長の方針を先取っている。
そして、長慶のもとで堺は有力な商人らによる自治を維持し、明やヨーロッパの商人も行き交う商業都市として栄え、次々と多くの商品が流入した。長慶に布教の自由をとりはからってもらったポルトガル人の宣教師ガスパル・ヴィレラは、堺を地中海屈指の商業都市だったイタリアのヴェネツィアのようだと書簡に記している。
