責任が明らかにならないまま思考停止
自己責任という言葉は、表面的には筋の通った原則のように見えます。しかし実際には、それは責任の所在を明らかにするためではなく、責任を一方向に固定するために使われることも少なくありません。
現実の出来事は、ほとんどが様々な要因が絡まり合って引き起こされています。たとえば失業一つを取っても、本人の判断だけでなく、景気や企業の状況、家庭事情や健康状態など、複数の要因が重なっています。それにもかかわらず、「転職に失敗したのは自己責任だ」と言われた瞬間に、その複雑さは切り落とされ、責任は一人に集中してしまいます。
このとき自己責任という言葉は、問題を説明するものではなく、むしろ説明を打ち切る言葉として機能しています。本来であれば、「なぜその選択しかできなかったのか」「なぜ失敗が深刻な結果につながる制度になっているのか」といった問いが続くはずです。しかし、「自己責任」と言われた瞬間に、それ以上の検討は不要であるかのように扱われてしまいます。つまりそれは、責任を明らかにする言葉というより、思考を止める言葉なのです。
「本当にそれだけなのか?」と問い直す
さらに重要なのは、この言葉が多くの場合、他者に向けて使われるという点です。「その人が選んだのだから、責任はその人が引き受けるべきだ」とすることで、支援しないことが正当化されます。責任を問うように見えて、実際には他の責任を見えなくし、自分や社会がその問題に関わらなくてもよい理由として使われているのです。
支援の必要性と責任の所在は別の問題です。たとえ判断に誤りがあったとしても、困難に直面している人が支援されるべきであることは変わりません。
それでも自己責任論は強く支持されます。制度にとって都合がよいだけでなく、自分が他者を裁く側に立てるという感覚が得られ、個人にとっても、自分を安全な側に置いておくための心理的な装置として機能するからです。
だからこそ、「自己責任」という言葉を聞いたときには、その場で話を終わらせてはいけません。むしろ、「本当にそれだけなのか」「誰かの責任が見落とされていないか」と問い直す必要があります。そうしなければ、私たちは知らないうちに、責任の不公平な配分に加担してしまうことになるからです。

