青森県・下北半島にある「霊場」恐山。口寄せをする「イタコ」で有名だが、山内は曹洞宗の菩提寺が管理している。院代の南直哉師は、坐禅の聖地・永平寺で約20年修行し、恐山に転じた異色の経歴を持つ。オウム事件から「直葬」の是非まで。両極を知る禅僧と希代の宗教学者との初対談は白熱し、3時間超に及んだ――。
「いまここがすべて」は×。根本は「人間はダメだ」
【南】私の学んできた仏教はどう考えてもヒューマニズムではありません。根本には「人間はダメだ」という見方がある。釈尊は「苦」だといいましたが、私なりにいえば、自己存在というのは死ぬまで治らない慢性病です。「無病息災」で楽になるというのは幻想で、「一病息災」で、どこまで切り抜けていけるか。ところが、一発で気持ちよくなれる「救済」を求めます。すると仏教の側も「それを出してみましょうか」となるのです。
【島田】仏教の最大の特徴は「悟り」という考え方にあると思います。キリスト教やイスラム教にはありません。絶対神につくられた人間が、現世で超越的なものをつかむという発想はないわけです。しかし、現代では「悟り」が「本当の真理をつかむこと」と誤解されていますね。
【南】近代以降の仏教は、そうした西洋の一神教的思考を前提にした枠組みが効きすぎていると思います。その点で注目すべきなのが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)と道元禅師です。2人とも、「真理」や「悟り」を棚上げにする方法が似ています。親鸞聖人は、念仏という行為自体に意味を見出して、そこに自我を解体していく。一方、道元禅師は、坐禅という修行そのものに意味を見出して、そこに自我を解体していく。形而上学的な思想ではなく、実践の中に自我を溶かし込んでいくわけです。
【島田】「悟り」をキリスト教の「回心」として理解すると間違いますね。キリスト教の「回心」とは、自分が罪深い存在だということを認めて、神にすべてを委ねるという経験です。「回心」の経験は、周りの人に語ることができます。