トヨタと永平寺に共通「生活すべてが修行」

恐山を順路通りに歩くと、「地獄谷」や「賽の河原」を経て、宇曽利湖畔の「極楽浜」に出る。

【南】「いまここがすべて」というのは、なぜか、と問いたいですね。それは神の椅子の位置を、自分の中に変えるだけです。ただし、たしかに仏教の「無我」とは、行為の中に自我を預けていくという思想です。だから行為の善悪についての倫理を示す必要があります。そうしなければ、「それはお国のため」「村のため」「会社のため」などと、仏教とは関係のない人間に方向を決められてしまう。仏教の立場で倫理を基礎づけることができないと、非常に危ないと思います。

【島田】日本の企業社会も、そうした構図をとってきました。その象徴がトヨタ自動車です。生産過程の中に自我を溶け込ませる。カイゼン運動という形で、それを奨励する。いまの日本の豊かさをつくった思想であり、ほかの国には絶対に真似ができないものだと思います。

【南】倫理を備えた実践体系の1つですね。

【島田】浄土系では「他力本願」といいますね。庶民的なレベルで実践しようとすれば、どうしたって「会社のため」となる。日本人は仏教の考え方をいかしながら、豊かな社会をつくり出す術を編み出してきたといえます。たとえば、それをある極北で支えているのが永平寺です。「生活すべてが修行」というあり方が、1つのモデルとして美化されています。

【南】そうですね。だいたい日本の禅宗の修行体系が固まったのは江戸期ぐらいで、永平寺の場合、現在のようになったのは戦後ぐらいでしょう。おそらく道元禅師の頃には、肩を叩く警策(きょうさく)はなく、読経(どきょう)さえなかったと思います。『正法眼蔵』には「看経(かんきん)」(※注4)という言葉がありますが、あれは黙読ですから。

(※注4:看経とは声を出さずに経文を読むこと。対して、声を出して読むことを読経や諷経(ふぎん)などと呼ぶ。)