青森県・下北半島にある「霊場」恐山。口寄せをする「イタコ」で有名だが、山内は曹洞宗の菩提寺が管理している。院代の南直哉師は、坐禅の聖地・永平寺で約20年修行し、恐山に転じた異色の経歴を持つ。オウム事件から「直葬」の是非まで。両極を知る禅僧と希代の宗教学者との初対談は白熱し、3時間超に及んだ――。

映画『お葬式』の衝撃。坊主は「サービス業者」へ

宗教学者 
島田裕巳氏

【島田】伝統教団の弛緩について、南さんはいつ頃から始まったとお考えですか。

【南】入山してまもなく、嘘の外出許可を取って、伊丹十三監督の『お葬式』(※注5)という映画を観にいきました。「これは終わりの始まりだ」と思いました。最近では火葬場で読経するだけで、戒名もつけない「直葬(ちょくそう)」が急増しています。「葬式仏教」のリアリティーが失われていけば、伝統教団の経済基盤は大きく揺らぐ。檀家制度が崩れれば、いまある寺のうち7~8割はやっていけないでしょう。

ただ、自然葬とか個人葬が従来の葬式に代わることになるかというと、そうではないと思います。弔いというのは、やってみないとわかりません。散骨したあとで、後悔するご遺族もいるわけです。

青森県恐山菩提寺院代 
南 直哉氏

【島田】宗教の重要な役割は、いかに死を受け入れて、それを意味づけるかという点にあります。日本では仏教がそれを担ってきました。曹洞宗は葬式仏教の祖でもあります。だから、曹洞宗の葬式はいちばん丁寧で贅沢でもありますね。

【南】だからこそ、永平寺の修行も儀礼中心主義になっていて、いまや坐禅よりも儀礼が修行として重視されています。修行僧も、釈尊のような実存の危機があって入門してくる者は多くありません。結果、職業訓練所のようになる。僧侶になったから、たまたま住職になったというのではなく、住職になるために僧侶になろうというわけです。そうなると、出家すること、僧侶として生きること自体の意味を自覚する機会が失われてしまう。

「物の時代から心の時代に入るから、仏教が求められる」という物言いでは通じません。これからのお坊さんは、消費者に選ばれる「サービス業者」なんですよ。それを自覚しないといけない。ある若い修行僧に「寺なんて継がなくてもいい」といいました。おまえたちが継がなくても、本当に必要な寺だったら必ず続く。それよりも、そもそもなぜお坊さんをやるのか。どういうお坊さんになりたいのか。その腹を決めるのが先だ、と。

(※注5:『お葬式』は1984年に公開された伊丹十三の初監督作品。脚本は、妻・宮本信子の父親の葬式で、伊丹が喪主となった実体験をもとに書き下ろされた。)