なぜ今どきわざわざ「紙」だったのか
評論を生業とする職業、評論家。この職業を名乗る人物はごまんといるが、彼らの生活の糧は何なのだろう。原稿料か、講演料か、プロデュース料か、それとも妻の稼ぎか。あるいは人知れぬ秘密の収入源か。そもそも生活は成り立つのか。成り立つ人はどれほどいるのか。
企画ユニット「第二次惑星開発委員会」の主宰者にして、批評誌『PLANETS』編集長をつとめる宇野常寛も、いわゆる評論家の一員だ。ただし、「若手論客の一人」とか「今をときめく」という言葉で形容され、一挙一動が注目される評論家である。「自民党からAKBまで」をキャッチフレーズに幅広い分野で活躍し、つい最近は、動画「恋するフォーチュンクッキー PLANETS Ver.」(http://www.youtube.com/watch?v=wA52CM0h5zI)で長い手足を若干もてあまし気味にぎこちなく踊る姿を見せた35歳は、2005年12月に『PLANETS』を創刊した。
その存在を知らない人に『PLANETS』をなんと説明したらいいのだろう。2012年12月に刊行された8号を例に挙げると、宇野と批評家の濱野智史(1980年生まれ。主著『アーキテクチャの生態系』)の巻頭言から始まり、扱う話題はゲーミフィケーション、ソーシャルゲーム、LINE、食べログから、東京論、アジア文化、原発……と幅広い。全記事26本のうち、座談会(5本)、鼎談(3本)、対談(1本)、インタビュー(8本)と話しことばで記されたものが6割を超える。寄稿者や語り手の多くは、いわゆる「若手の論客」だ。TBS「サンデーモーニング」のコメンテーター・萱野稔人(1970年生まれ、津田塾大学教授、哲学者)、朝日新聞書評員の水無田気流(1970年生まれ、詩人、社会学者)、安倍内閣「今後の経済財政動向等についての集中点検会合」委員の古市憲寿(1985年生まれ、東京大学大学院博士課程在籍中、社会学者)、『「フクシマ論」 原子力ムラはなぜ生まれたのか』で毎日出版文化賞を受賞した開沼博(1984年生まれ、福島大学特別研究員、社会学者)らが並ぶ。彼らが繰り出す文芸批評、社会時評、メディア論、ポップカルチャー論、ゲーム批評がごった煮になった雑誌が『PLANETS』だ。
不定期ながら号を重ね、最新の8号の販売部数は1万部。紀伊國屋書店やジュンク堂といった大手チェーン書店から独立系のコアな書店まで約100店舗で販売され、消化率は約9割。既存の雑誌でこの率をたたき出すものは滅多にないはずだ。『PLANETS』が宇野の今日をもたらし、下世話ではあるが「食える評論家」の仲間入りをさせたとことは間違いない。
だが、紙の媒体はコストがかかる。手間も甚大だ。原稿を書き、レイアウトを施して、入稿し印刷して製本し、さらには完成物を書店に届け、売れたら売れたでせっせと代金を回収しなければならない。2005年当時ならウェブ媒体も可能だったはずだ。
なぜ彼はわざわざ面倒くさくて金食い虫の雑誌を選んだのか。
【宇野】僕が『PLANETS』を創刊した2005年当時というのは、ブログ論壇がすごく栄えていた頃です。でも、当時のブログはまとまった量の質の高い記事を読ませるためのインフラとして整備されているとはあまり思えなかったんですよ。そこで受けるのは特定のコミュニティの中で火がつきやすい炎上系のネタか、インターネット上の便利なサービスなどを紹介するノウハウものの二つが中心で、僕がやりたかったような文化批評や社会時評で、クオリティが高い内容を読ませる環境にはないと考えていたんです。最近はちょっとまた事情が変わってきて、僕の考え方も変わってきていますが、当時はウェブでやっているかぎり、なかなかその外側に出ることはできないと思いました。紙にすることによって、ウェブ上の馴れ合いのコミュニティではなく、その外側にちゃんと行きたい、自分たちが実際に文化を創っていきたいという意思表示をしたいと考えたんです。
『PLANETS』を創刊する少し前、宇野は企画ユニット「第二次惑星開発委員会」を立ち上げている。学生時代の友達を集めて作った、一種のサークルのような「惑星開発委員会」をいったん解散した後、宇野が「おもしろい」と感じたブロガーたちに声をかけ結成したのが「第二次惑星開発委員会」だ。運営していたサイトの記事の中には、はてなブックマークで3桁の人気を獲得するものもあったというから、紙媒体にせよウェブで創刊するにせよ、『PLANETS』が売れる素地はある程度、出来上がっていたと見ていい。
だが、あえて宇野は紙にこだわった。それは、内輪の慣れ合いから脱するためだけではない。もうひとつ別の特大の理由があった。