歌広場に届いていた第1号
【宇野】僕が雑誌が好きだったことですね。僕の出発点と言ってはちょっと大袈裟ですが、高校生の頃、函館でテレビのない寮に入っていたので、非常に情報に飢えていたんです。当時アニメオタクでしたが、アニメの絶対的な情報量が少なかったので、ひたすら函館中の古本屋を回って、80年代の最初のアニメブームの頃のアニメ雑誌を買い漁っていました。この頃のアニメ雑誌には勢いがあって、作りは悪いけれど、中身がやりたい放題でアナーキーなものがいっぱいあったんですよ。とくに好きだったのが『アニメック』や『OUT』。アニメブームの頃の、ジャンルの勃興期ならではの情熱にあふれた記事が充実していて、遊び心があって、あの熱気というのが僕の少年の日の憧れみたいなものを形づくった。自分たちの実力を出版界に思い知らせるための活動の一環が『PLANETS』ですが、紙を選んだのは「この1冊と出会うことによって、自分の世界が広がるんじゃないか」という読者の期待感がパッケージングされた魅力ある雑誌を作りたいとずっと思っていたからです。
『PLANETS』は恐ろしく字が多い雑誌だ。最新号の8号は表紙こそ、文字はタイトルと「僕たちは〈夜の世界〉を生きている」という一文だけだが、全232ページはひたすら文字、文字、文字。しかも小さい。豆粒のように小さな文字の三段組の記事すらある。たとえサブカル方面には疎い人でも、「この記事を届けたいんだ」「自分たちの実力を世界に知らしめたいんだ」「文化を創りたいんだ」というむせ返るような強烈なメッセージは感じ取れる。
『PLANETS』創刊時、京都のIT企業に勤めるサラリーマンだった宇野は、会社員生活のかたわら、コストも作業効率も何も考えずに仲間とともに制作にとりかかった。
【宇野】全員、ただでやればいいやと思っていました。デザインはメンバーにDTPを使える人がいたので、その人に丸投げしてましたね。直前まで台割もなかったぐらいです。校正は僕とDTPのスタッフと、あと何人かで手分けしてやったんですけど、粗々でした。ページ数は130ページぐらいあったので、メンバーがそれぞれ自分の原稿を書いて、冒頭にちょこっと企画ものがあってという構成だったかな。だから、コストは印刷代以外計算しなかった。いくら売れるかわからなかったですし。
『PLANETS』第1号の刷り部数は約200部。制作にかかった費用は約10万円。もちろん人件費や原稿料などが一切含まれない印刷費オンリーの金額だ。お釣りが面倒くさいというシンプルな理由で価格を1000円に設定し、コミケのほか、同人誌や自主制作本など一般書店流通にのらない書籍や雑誌を扱う中野ブロードウェイの有名店タコシェなど、同人誌ショップに数店卸したところ、即座に完売。150部ほど増刷したが、それもあっさりとはけた。
販売部数はトータルで約350部。同人誌としては悪くない数字でも、雑誌の部数として見ればちっぽけな数字である。だが、「ウェブ上の馴れ合いではなく、その外側に行きたい」という宇野の野望はかなえられた。
【宇野】ゴールデンボンバーがブレークする直前に取材をしたことがあるんですが、その時に、歌広場淳が『PLANETS』1号を読んでいたことがわかりました。当時、彼はサブカルとかが好きな日芸(日本大学芸術学部)の学生だったんですよ。ちゃんと届いていたんだなと。
初号を見つけ出し、愛読してくれた読者と取材を通じて再会するなんて、なんと幸福な体験だろう。情報に飢え、自分の世界を広げてくれる刺激と期待感をもたらす雑誌を渇望していたかつての宇野が350名いたのである。
●次回予告
「PLANETS」は号を重ねていく。そのとき、販路はどのように広げていったのか。オンライン書店を売り場に加えたタイミングはいつだったのか。自らの手でつくっていくマーケティングの姿勢を聞く。次回《2種類の売り場》、12月9日更新予定。