金持ちであったことも、貧乏をしていたこともない

宇野常寛氏。(略歴は前回参照。http://president.jp/articles/-/11367

『PLANETS』1号を発行した翌年の2006年、宇野は勤めていた会社をやめ、東京へと活動拠点を移した。

もっとも会社勤めから足を洗ったわけではない。その後広告会社などを経て、出版系の会社に転職し、5号を出す2008年まで、会社勤めのかたわら『PLANETS』を作る二足のわらじ生活を続けている。

【宇野】『PLANETS』の製作費は全部僕が出していました。ぶっちゃけ、僕が普通に働いていたからできたこと。僕は就職してから1回も生活に困っていないんですよね。別に金持ちであったこともないけれど、貧乏をしていたこともないんですよ。

ポケットマネーで自分が一番読みたい記事を自在に作れる環境を整え、宇野はサブカルチャー総合誌を意識した『PLANETS』2号の制作をスタートした。手探りで作った創刊号とは違い、台割を作成し、雑誌編集の一般的な工程を踏んで2006年8月に完成した2号(特集≪ゼロ年代のオタク文化地図≫)の総ページ数は約300。ページ数も増えたが、販売部数もアップした。500部刷って300部増刷したというから、売れ行きは創刊号の倍以上だ。

2007年6月発売の3号(特集≪メディアと恋愛、コミュニケーション≫)とはさらに人気を集めた。1号2号の比どころではない。文字通り、爆発的に部数を伸ばした。

【宇野】3号は累計で3000部弱売れました。でも、こんなに部数が増えるとは思ってなかったんですよ。もちろん、もっと広めたいとは思っていましたが、3号は僕が考えていた数字の何倍もの反響があった。原因は明らかで、『SFマガジン』で僕の『ゼロ年代の想像力』の連載が始まったことです。それがブログ論壇などで取り上げられて話題になり、部数が跳ね上がりました。書店売りを始めたのもその頃からですね。

アニメ、テレビドラマ、映画、小説、そして仮面ライダーを取り上げた文化批評『ゼロ年代の想像力』は、『SFマガジン』2007年7月号から翌年6月号まで連載され、7月に書籍化された。帯には宇野が本書の後記で「十代の頃より、長く私の目標となる人物だった」と書いた社会学者の宮台真司が推薦文を寄せている。

扱い書店を増やす上で重要な役回りを果たしたのが、宇野をめぐる編集者たちだ。ひとりは、京都で会社勤めをしていた頃から宇野に目をかけていたフリー編集者。もうひとりは、3号で宇野が取材したTBSラジオ「文化系トークラジオLife」のプロデューサーのところに出入りしていた某出版社の営業マンだ。彼らから紹介された書店に宇野は営業に出向き、販売契約を取り付けた。わらしべ長者のような縁が『PLANETS』の原型を形作った。

2008年2月に4号(特集≪「文学」なんて、知らない≫)を、同年8月に5号(特集≪テレビドラマが時代を映す≫)を、2009年5月に6号(特集≪お笑い批評宣言≫)を出した後、宇野はある決意をする。

【宇野】それまでは3000から5000の間ぐらいの販売部数に満足していました。消化率がだいたい9割だったので、実売ベースだと号によっては商業出版の文芸誌に勝っていたと思います。自分の中でけっこう自信もついてきたので、じゃあ、いままで貯めたノウハウを総動員して、自分の集大成のつもりで究極の1冊を作ろうと、7号でクオリティをぐんとあげたんですね。直球勝負で、いま一番おもしろいサブカルチャー総合誌を作れるのは僕だと。僕とうちのスタッフの持っているネタで一番おもしろいところを全部投入すると、ここまでの雑誌ができるんだということを証明しようと作ったのが7号(特集≪ゲーム批評の三角形-アーキテクチャ/コンテンツ/コミュニケーション≫)です。いまの体制のまま、どこまで行けるのか試すつもりで扱い書店を増やしていきました。