インドで倒れる
翌年、今度は後輩と一緒にインドへ。首都デリーからコルカタまで約1800キロを、50日かけて自転車で行く予定を立てたが、初日からお腹を壊し、最後まで体調不良に見舞われた。当時は清潔な水が確保できず、1カ月で体重は18キロも減少した。残り600キロ地点に到達した時に、とうとう体力が尽きて、道に倒れ込んでしまった。
「道路に寝転んだら青空が見えて、この空は日本につながってるんだなと思ったら、もう涙が出てきたんですよ。なんとかして日本に帰りたいと思って、『生きて日本に帰してくれるんだったら、日本のために役立つような人間になります』と神様にお願いしました」
このときの酒井さんを救ったのが、米だった。インド料理を受け付けなくなっていた酒井さんは持参したのりたまのふりかけと、途中で知り合った日本人に分けてもらった鮭フレークを白米にかけて食べた。慣れ親しんだ日本の味に元気を取り戻した酒井さんは、なんとか走り切り、ゴール地点のコルカタに到着した。
帰国した酒井さんは、すぐ実家に帰省。9月中旬のちょうど稲刈りシーズンで、高速バスから伊那谷に広がる田んぼの風景を見た時に、「生きて帰ってきた」実感が湧き、涙が出たという。
「その風景を見た時に、地元に戻って何か役に立つことをやりたいなと思いました。インドでお米に命を助けられたので、お米関係のことができたらいいなと思ったんです」
「子どもたちのふるさとを守りたい」
酒井さんは「米関係の仕事がしたい」と思いつつ、農業の経験もなかったので、まずは地元の一般企業で営業の仕事をした。その後、結婚して子どもが生まれたタイミングで、先に酒井さんの親が移り住んでいた飯島町に引っ越すことに。その際、食肉加工で包丁を握る仕事の募集があることを知り、「職人仕事への憧れもあったから」と転職した。
その頃、少子高齢化で人口が減り、将来的に飯島町は消滅してしまうという報道を目にした。
「僕は海外に行った時に、ふるさとの大切さを認識しました。でも、このままだと子どもたちのふるさとがなくなってしまうと思ったらすごく切なくなって」
ふるさとを守るためには町おこしが必要だと考えた。マラソンが趣味だった酒井さんは、各地のマラソン大会にたくさん人が集まっているのを見て、経済効果があると感じていた。また、飯島町は「飯の島」の名の通り米の産地でもあることから、米を絡めたい。改めて飯島町の歴史を調べてみると、江戸幕府の直轄地で、町には陣屋(役所)があったことを知る。
「陣屋があるということは、年貢米が集まった地域じゃないかっていうのを想像して。米を届けるというテーマで、米俵を担いで走ったらおもしろいんじゃないかと思いつきました」
さっそく新聞広告を出すと、定員50人が3日で埋まった。大きな反響に手応えを感じた酒井さんだが、ここからが誤算だった。


