脱出後の御内書から見えた“大物感”

問題は、義昭が毎晩寝床で「もしも兄貴になにかあって、俺が将軍になったら……」と妄想、いや脳内トレーニングをしていたかのごとく、将軍後継者としての振る舞いをするようになったことだ。

なにせ、義昭は最初の御内書からしてこうである。

こんど京都の様躰、是非なき次第に候。それについて、和田に至り取退き候。進退の儀、万端まかせおき候間、旗鼓を散じ候やう、人魂偏に頼み入り候。委細の段、大覚寺門跡へ申し候間、演説あるべく候。穴賢く。

(永禄八年)八月五日
上杉弾正少弼殿
(花押)
(桑田忠親『戦国武将の手紙』人物往来社、1962年)

要約すると「京都は大変なことになりました。とりあえず和田のところに逃げてきました。今後はすべてお任せしますので、旗を掲げて動いてください。詳しくは大覚寺門跡が説明します」である。

注目すべきは文体だ。脱出からわずか一週間、まだ「覚慶」というお坊さんの状態で、この手紙はすでに完璧な将軍の御内書の書式で書かれている。藤孝あたりが添削をしているにしても、早くも「私が次の将軍を目指すので、なんとかよろしく」とへりくだりつつも「お前、動けよ」と依頼をしているわけである。しかも、あれこれ頼むみたいなことを書かずに「後は任せた‼」と、謎の大物感がある。

“盤石の態勢ぶり”を平然と書いている

この大物感がさらに冴えているのは、京を追放されてから3カ月後に発給した御内書だ。

当国に座を移すについて、おのおの礼儀、祝着の通り、輝元に対し申遣わし候。然らば、入洛の儀、東北国手合せを請け、形の如く到来。いよいよ別儀あるべからず候。なかんづく、大坂堅固の内、相催すべきなり。西国諸士吉田に至り集会せしめ、来春義兵の行肝要。なほ、昭光・昭秀申すべく候なり。

(天正元年)十月十日(桑田忠親『戦国武将の手紙』人物往来社、1962年)

要約すると「こちらに拠点を移すにあたってのご挨拶、ありがとうございます。さて、上洛の件ですが、東北(京都から見て東北のこと)の諸国との連携もすでに整ってきており、間違いなく実現します。とりわけ大坂(本願寺)が持ちこたえている今のうちに兵を集めるべきです。来春に義兵を挙げることが肝要です」というものだ。

まったく、追放されて落ちぶれたようには見えない。興福寺を脱出した時と同じゼロスタートとなっているのに「東北との連携は整った」「上洛は間違いない」「来春に義兵決行頼むぞ‼」と、まるで盤石の態勢から発令するかのような文面を平然と書いているのだ。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)
足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)(写真=『国史肖像集成 将軍篇』目黒書店/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons