三島由紀夫は、当時16歳だった美輪明宏と出会い、人生が変わった。以来、10もの年の差を越え、親密な交友関係を続けた。いったいどんな会話を交わしていたのか。評論家、佐高信さんの『昭和に挑んだ作家たち』(平凡社新書)より、一部を紹介する――。

マッチョな姿からは想像できない幼少期

岡村青は『三島由紀夫と森田必勝』(光人社NF文庫)で、虚弱だった三島の幼年期を次のように書いている。

「いささか病的でヒステリックな祖母は実母から三島を奪いとり、自分の手元から離さなかった。それは可愛い孫というよりペット、愛玩としての接し方のようであった。よほどのことでもないかぎり外出も許さなかった。それぐらいだから遊びといえば家の中でやれるもの以外認められず、しかもそれはオハジキとかママゴト、折り紙といったおよそ男児らしからぬ遊びに限定された。男の子と遊ぶのは危険、外出は体に悪い、という理由で祖母は遊び相手も年上の少女を選んだ」

後年の肉体強化、武力信仰はその激烈なまでの反動ではなかったか。

三島は徴兵検査で第二乙種となっている。辛くも合格とはいえ、ほとんど徴兵されることはないと思われたが、戦局の逼迫と共に入隊検査を受けることになった。

しかし、風邪を引いて高熱だったために、肺浸潤と診断され、即日帰郷を命ぜられる。

その後の様子を、付き添って行った父親の平岡梓が『伜・三島由紀夫』(文春文庫)にこう書いている。ちなみに三島の本名は平岡公威である。

三島由紀夫、1955年撮影
三島由紀夫、1955年撮影(写真=土門拳/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

父が書き残したあまりにも情けない姿

「門を一歩踏み出るや伜の手を取るようにして一目散に駈け出しました。早いこと早いこと、実によく駈けました。どのくらいか今は覚えておりませんが、相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。これはいつ後から兵隊さんが追い駈けて来て、『さっきのは間違いだった、取消しだ、立派な合格お目出度う』とどなってくるかもしれないので、それが恐くて恐くて仕方がなかったからです。『遁げ遁げ家康天下を取る』で、あのときの逃げ足の早さはテレビの脱獄囚にもひけをとらなかったと思います」

西部邁と『映画芸術』の2017年夏号で対談した時、西部はこの件について、

「お父さんが裏で手を回したという説もあります」

とまで言った。