「全部、与えられた人生だった」
三島の受け身性については、美輪明宏から聞いた話が忘れられない。
『サンサーラ』の1996年11月号で対談した時、三島と親交の深かった美輪は私にこう言ったのである。
「三島さんは、学習院時代に“ヘチマ”だの“うらなり”だのと言われていたくらい、ひ弱だった。あの人は親孝行な人だったから、お母様とおばあ様が上流社会志向のために、自分の希望しない学習院に入れられたんです。次にお父様に『帝大に行け』と言われて、帝大に入り、『大蔵省に行け』と言われて、大蔵省に入った。全部、与えられた人生だったんです。
あの方が自分で選んだものは、物を書くことだけだった。でも、その物を書くことにしても、時代のせいもありますが、『物書きや芸人なんてとんでもない』と、お父様に禁止されていたんです。そうしたら、お母様が隠れて原稿用紙と万年筆をそろえてくださっていた」
着る物もすべて母親の見立てだった。
美輪が初めて三島と会ったのは16歳の時で三島は26歳だった。美輪が続ける。
「私は、思い切った格好をしていて、思い切った人生を生きていましてね。彼は、それが羨ましかったわけですよ。私は、自分の生き方も、暮らしも、生計をたてるのも、着る物も、食べる物も、全部自分で決めて自分の人生を生きていたんです」
自前の人生である。三島は違った。
ジーンズをはきたい、革ジャンを着たい
お行儀がいいから、頭髪は七・三に分けてポマードをつけ、背広にネクタイ姿だった。それで美輪の服装を“田舎モダン”だとか目茶苦茶に言う。美輪が反論した。
「あなただってお召しになりたいものがあるでしょう。なさりたい格好がおありでしょうよ。どういう格好なさりたいの、本音は。いつまでも背広にネクタイばかりじゃないでしょう」
すると、素直になって、ジーンズをはきたい、と言う。
それで一緒にアメ横に行って、ジーンズを買い、革ジャンを着たい、と言うので、革ジャンも求めた。
それから、剣道をやりたいとか、スターの気分を味わいたいとか、ありとあらゆることをやり始めた、と美輪は指摘する。
「生まれることから、生活から、なにもかも与えられた人生から、今度は逆に自分が選ぶ能動的な人生に変わっていったんです。そして、『死さえも与えられてはかなわない』と思ったんですね」
なるほどとストンと腑に落ちる美輪の三島論だった。
「生は与えられたものだけれど、死こそは自分が選んでやる」と、受け身の人生から能動的な人生に変わった、と美輪は言う。

