信長は長政を許したという物語
浅井三代の興亡を記した軍記物語『浅井三代記』(江戸時代初期の成立。史料的価値は低い)には、小谷落城の直前、信長は不破河内守(光治)を呼んで、長政のもとに遣わしたとあります。信長は光治に「お前は案内を乞い長政のもとに行け。そして、数年に亘り、長政が一戦に及んだのも越前朝倉氏が要因である。朝倉義景は既に討ち取った。今は長政に遺恨はない。よって城を明け渡せと長政に伝えよ」と命じるのでした。信長は長政を助けようとしたという「異説」です。
光治は長政と対面、信長の意向を伝えます。長政は信長の想いに感謝しつつも、このような状況になったからには「討死を遂ぐべきなり」と死ぬ覚悟を伝えます。信長は「大和国を与えよう」とさらに長政に投降を勧誘しますが、長政はついに承引しませんでした。
長政は妻のお市の方と娘たちを信長方に送らせた後、織田軍兵を相手に獅子奮迅の働きをします。その後、自害して果てるのでした(9月1日)。
長政が助命を断ったという説
信長が長政の命を救おうとしたとの逸話は『浅井三代記』のみに見られるわけではありません。
江戸初期に成立した『織田軍記』(著者は遠山信春。信長の事蹟を叙述した戦記。史料的価値は高くはない)にも信長は長政の命を「何としても助けたい」との言葉を発しています。しかし長政は既に「腹を切る事」を考えていました。腹切ることこそ「勇士の死後の本望なり」というのです。そうしたところに信長の使者・不破河内守がやって来て、長政に助命の件を伝えるのでした。「年来の合戦のことは武門の習いであり、是非なき次第。心中に少しも疎意(うとんじる気持ち)はない。ここを退出するならば、必ず助命しよう」との信長の意向を聞いても、長政は首肯しませんでした。「それがしの運命は尽きた。是非に及ばず」と長政は言ったとされます。
『織田軍記』では、信長は長政に一度断られても、不破河内守を再び遣わすなどして、長政を助けようとしました。度重なる説得に、長政は父・久政を助けてくれるなら城から出て、信長の仰せに従おうと言ったこともありました(久政は既に自害していたのですが、長政はそれをその時、知りませんでした)。信長は久政の死を隠して「久政を助けると(長政に)申せ」と不破河内守に命じます。
9月1日、長政は居城を出るのですが、その時、久政が既に死んでいるとの知らせが入ります。「だまされた」と感じた長政はそのまま家老・赤尾美作守の宿所に入り「腹切って死」んだのでした。

