軍資金・兵力ゼロでつくった“包囲網”

しかも相手は武田信玄であり、上杉謙信であり、毛利輝元だ。少しでも失礼があれば無視されるどころか、かえって反感を買いかねない相手ばかりである。それを将軍のブランドを最大限に活かしながら、官位をちらつかせ、義理と礼儀でくるみ、気がついたら「動かざるを得ない空気」を作り上げてしまう。

しかも、義昭がすごいのは手紙だけで、実態がないことである。軍資金ゼロ、兵力ゼロ、拠点は毛利に間借り……その状況で包囲網を編み上げたのだ。

これは現代でいえば、レンタルスペースで撮影した「豪邸風」写真をSNSに上げ、レンタカーのフェラーリの前でポーズを決め、「私はこんな生活をしています」とフォロワーを集めるインフルエンサーと、構造としてはまったく同じだ。実態はないが、見せ方だけで人を動かしているわけだ。

もっとも、義昭が現代のインフルエンサーと決定的に違う点が一つある。「一応、将軍やってます」という事実だ。

これは強い。レンタルスペースで豪邸を演じるインフルエンサーと違い、義昭の「将軍」という肩書は本物である。朝廷から正式に任命された征夷大将軍であり、官位を授ける権限も実際に持っていた。「私に従えば、官途を進めてやろう」――これは口約束ではなく、制度上履行可能な約束だった。

足利義昭像
足利義昭像(写真=松平定信編『古画類聚』/東京国立博物館/PD-1996/Wikimedia Commons

義昭が信じた「天下への夢」

さらに義昭には、もう一つの武器があった。「夢」である。

義昭に決め文句があるとしたら「今は零落しているが、いつかは必ず京都に戻る。そのとき、私を支えてくれた者には相応の恩賞を与える」となるだろう。ある意味、全国の大名たちもその夢をどこかで信じていた。足利将軍家の権威はそれほど長く、深く、人々の意識に刷り込まれていたのだ。

だがおそらく一番強く信じていたのは、義昭自身だったのではないか。自分こそが正統な将軍であり、いつか天下は必ず自分のもとに戻ってくる……その自己暗示なしに、あれほど執拗に手紙を書き続けることはできなかっただろう。

実に義昭の「夢よもう一度」は、強烈だ。

その執念がもっとも鮮明に表れるのが、本能寺の変の直後である。天正10年(1582年)6月、宿敵・織田信長が明智光秀に討たれた。この報を受けた義昭の脳内では、おそらく「ようやく出番か!」という言葉が弾けたに違いない。義昭は信長横死の直後から島津義久をはじめ諸大名に矢継ぎ早に手紙を送り始めている。

この年の11月に島津義久に送った書状では、こう書いている。

こんど織田事、天命遁れ難きによって、自滅せしめ候。それについて相残る輩帰洛の儀切々申候条、示合せ、急度入洛すべく候。此の節別して馳走悦喜すべし。仍って、太刀一腰黄金拾両到来。喜び入り候。
(桑田忠親『戦国武将の手紙』人物往来社、1967年)