献上品に喜び、「上洛」を求めた

要約すると「信長はついに天命に従って自滅しました。みんなで合図を合わせて、さあ今すぐ上洛しましょう。よろしく頼みます。島津さんから太刀と黄金十両が届きました、嬉しいです」である。

ちょっと待ってほしい。島津義久から太刀と黄金十両が贈られてきたことに「喜び入り候」と感激しながら「急度入洛すべく候」と迫る。これは、この書状の体温が伝わってくるではないか。献上品に小躍りしつつ「さあ一緒に上洛しましょう!」と畳み掛ける、これはもはや興奮状態の上司からの深夜のLINEである。「島津さんありがとう! でもそれより聞いて! チャンスだよ! 一緒に動こう!」。

しかも「天命遁れ難きによって自滅」とは、信長の死を天罰と断言する自信満々ぶりである。10年間、鞆の浦で手紙を書き続けながら「私が正しい、天はいつか私に味方する」と信じ続けてきた男の確信が、ここに凝縮されている。

明智光秀はすでに山崎の合戦で敗死している。変から実に5カ月が経過していた。情勢はとっくに動いていたのに、義昭はまだ島津からの献上品に小躍りしながら「さあ上洛!」と手紙を書き続けていたのである。

島津義久の献上品は「将軍」への義理と礼儀であって、実際に兵を動かす根拠にはならないにもかかわらず、である。

島津義久(伝島津忠久)像
島津義久(伝島津忠久)像(出典=ColBase

効力が弱まっていった“義昭ブランド”

実に、義昭の情熱とは裏腹に、この頃には、もはや将軍の看板は価値を失っていた。水野嶺「足利将軍権力の消失」(『国史学』222号)は、義昭が鞆の浦に移座した天正4年(1576年)以降、義昭の御内書の伝達経路に決定的な変化が起きたことを指摘している。それまでは義昭から各大名・国衆へ直接届いていた御内書が、毛利輝元を経由しなければ機能しない仕組みに変わっていたのだ。

義昭が「毛利の諸将に出陣を命じる手紙」を出しても、それは輝元の副状が付いて初めて効力を持つ。義昭単独の命令には、もはや人を動かす力がなかった。将軍の看板を使わせてもらっているのは、義昭のほうだった。

これは、島津氏も同様だった。島津義久は義昭の使者に対し、「一家中への直接の御内書は控えるよう」申し入れている。将軍の手紙が大名の家中に直接届くことを、大名たちはむしろ自家の統制を乱すリスクとして警戒するようになっていた。かつては絶大だった将軍の権威が、この段階では各大名家の内部統制にとって「迷惑な介入」になりかけていたのである。

そして、論文は「足利将軍家が連綿と続いてきたことにより得ていた、社会的な観念としての伝統的権威に過ぎなかった」と結論づけている。観念的な存在、これは現代の言葉に置き換えれば、「ブランドの残像」だ。