何をもって政治家を信じるべきか
今回の田久保氏についても、伊東市民が騙されたとか、見る目がなかったとか、そういった対象ではない。彼女が選挙で掲げた政策はフェイクではなかっただろうし、「学歴」を除いては、有権者を騙そうとはしていなかったのではないか。本当の詐欺師というか、邪な心に満ちていたのなら、もっと賢い方法がいくらでもあったのではないか。少なくとも、彼女が伊東市や市民のために、と心を砕いた姿だけは信じたい。
まさにここに選挙の難点がある。何が大事な政策で、何をもって政治家を信じるべきなのか、信じられるのか、という難しさがある。こう書いている私からして、「学歴詐称」に手を染めた田久保氏の政治家としての真心を疑いきれないのである。
これが、田久保氏が、私たちの耳目を集めつづける要因ではないか。彼女が、異例の起訴をされ、鋼のメンタルを持った異形の人だから、だけではない。意図せずして田久保氏が突きつけたのが、選挙とは何か、という根本的なテーマだったからではないか。
政治家にとって「学歴」とは何か。有権者が政治家を選ぶときに、何をもとに決めればよいのか。決めるべきなのか。そういった、私たちが考えているつもりでいながら、実は、よく考えるとなおざりにしている大切なポイントを気付かされたからではないか。
田久保氏から目が離せない本当の理由
では、私たちに何が求められているのか。政治家に卒業証書を提出させたり、企業や役所などへの在籍証明書をとらせたり、といった、公的な証拠を要求させる振る舞いなのか。いや、そうした小手先の、かたちだけの対応策では、物足りない。討論会をさせて優勢だった人を選べば済むわけでもない。自分の意見と各政党・候補者の考えの一致度を数値で表示する「ボートマッチ」と呼ばれるツールでも決められない。
決め手がないからこそ、逆説的に、私たちの直感を信じる覚悟が求められるのではないか。
かつて、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、政治家には、何があっても引き受ける「責任倫理」が必須だと喝破した。言い訳をせずに、結果や事態、現実をありのままに受け止めなければならない、と説いた。
有権者たる私たちに求められているのもまた、これに近い。「学歴」をはじめとする釣書だけでも、聞こえの良い「政策」だけでもなく、最後は、私たち一人ひとりが、その政治家を信じられるかどうか、その感覚が問われている。自分たちの選択が招く結末がどうあれ、受け入れる覚悟が問われている。こうした直感や覚悟には、絶対の正解はない。田久保氏から私たちが目を離せないのは、そのせいなのだろう。

