「必読書」とは流行に過ぎない
戦前の旧制高校なんかでは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」などと言って、それらはみな青年の必読書だと喧伝されていたかもしれないけれども、ではそれらはどこまで役に立ったのかというと、はなはだ疑問です。
いっぽうまた、私たちの学生時代、すなわち昭和3、40年代時分は、「サルトル」「サルトル」とか言って、「実存主義」大流行の時代でした。じっさいサルトルが来日して大学などで講演もしたりして、それはもう盛大なものでした。
私も、流行に脅迫されて多少読んでみましたが、無論原語フランス語では読めないので、日本語訳を読んだのですが、まあ何を言っているのかさっぱり理解できないへんてこな文章でした。
時移って、今では「実存主義」という言葉もさっぱり聞かなくなりました。だから、そういうのは一種の「流行」に過ぎないと私は思います。同様に、曰く構造主義、曰くポスト構造主義云々と、海の向こうから流行の思想が伝来します。
けれども、それらは私の人生にはまるっきりなんの関わりもありません。
読書体験とは極私的なもの
明治以来、西洋のほうから来たものを、みな偉いものだと思って崇拝する。崇拝するのも感激するのも自由ですが、たまたまそれを読んだからといって、それゆえ自分は偉いと勘違いして吹聴するってのは、ちっとも感心したことではありません。
それより、各自が一人ひとりの人生の中で、「こういう本を読みたい」と感じた一冊をじっくりと熟読し玩味し、またそこから独自の考察を廻らしなどして、「この本には、いいことが書いてあったな」と思えば、それはその人にとっての、心の血になり肉にもなるのです。
けれども、くれぐれも勘違いしてはいけないのは、そういう読書体験というものは、極私的なもので、他の人にとってはどうでもいい本かもしれない……と、そこをちゃんと自覚しておかなくてはいけないということです。
私の師匠だった森武之助先生は、壮絶なる読書家で、その知識は無双であったけれども、しかし、いつも茫洋とした風情で口数少なく、全くそうしたことを弟子共にも吹聴しない先生でした。あれを読めとかこれを読めなど、ついぞおっしゃらなかった。
けれども、わからないことがあって先生にお尋ねしてみると、およそどんな本でもお読みになっていて、きちんと教えてくださった。この森先生のような方が本当の読書家なのでしょう。
だから、「偉そうに読書を強制する人の言うことは信用するな」と、私は言いたいのです。

