父の妻子へのDVは凄まじかった
秋野は浅野家から茶碗に米をもらって自分で炊いていた。玲子がよそう時は山盛りにしてあげていたが、ある日、母に見つかって殴りつけられた。次の日、母は秋野に渡す米を茶碗からえぐられるだけえぐって渡した。受け取った秋野は弟である玲子の父に見せると、今度は母が父に殴られた。父は妻も子どもも容赦なく殴り飛ばし、蹴り飛ばした。しばらくして夫婦は仲直りし、秋野は近所の畑からきゅうりや茄子を盗んで食べた。そのうちお腹を壊して床につき、毎晩鳴き声をあげたが両親とも大袈裟だと放っておいたため、4日目に亡くなった。
父の折檻は激しすぎて、何度も「尊属殺人犯」になりかけた。玲子は書く。「スラム広しといえど、子供をぶんなぐることにおいては、彼の右に出るものはなかった」。例えば玲子が貯めていた小遣いを三女の敏子が盗ったことを知ったとき、父は「うちは人殺しや放火はいても、泥棒だけは育てた覚えがない」と叫び、5歳の敏子を裸にして荒縄でぐるぐる巻きにして夜の川に投げ込んだ。
トイレットペーパー代わりの新聞を読む5歳
さすがに敏子が死んでしまうと母は近所の人を呼びに行った。皆、舟を出して提灯をともして敏子を探した。網が投げられ、竿で川底をさらう人もいたが結局見つからなかった。母は、父が自首する時のための着物を縫い始めた。ところが、共同便所に入った近所の人が中で暖をとるため跳ね回っている敏子を発見。父は尊属殺人の汚名から逃れ、敏子はきょうだいから「不死身の敏子」という称号をもらった。とはいえきょうだいも、7人中5人がランニングで県大会で記録を残すほど逃げ足を鍛えられていた。
玲子は4〜5歳頃から、共同便所にあったトイレットペーパー代わりの新聞を読むのが好きだった。隣町に出かけるときの母のお土産も一人だけ雑誌や古本だった。母は玲子に、勉強をすれば立派な人間になり、人からも侮られずにすむと教えた。その教えを胸に刻んで、玲子は学業に励んだ。綴り方が上手だったため、全校を代表して戦地の兵士に手紙を書いたこともあった。
文才のおかげで高等女学校へ進学
小学五年生のとき、両親の話し声を耳にした。玲子は頭がいいのだから、何を売ってでも女学校から師範学校へ進ませよう。教師になれば、たとえ売れ残っても食べていける。その「売れ残っても」という一言が、玲子の胸に深く突き刺さった。口蓋裂があり、しかもすぐ上の姉は美貌を称えられて贔屓にされていたため、容姿に強い劣等感を抱いていたのである。
1942(昭和17)年4月、玲子は名門・就実高等女学校(現・就実中学校・高等学校)に入学。15歳ごろから詩作を始め、次第に文学で身を立てたいと考えるようになった。

