来日したのはエリザベスのため?
八雲は来日後9作目となる民間伝承や随筆などを収めた『日本雑記』(1901年)を、ビスランドに捧げています。
そして、1902(明治35)年7月の手紙では、
「12年前、日本へ行ってほしい、あなたが書いた本が読みたいから、と言ったのを思い出す。もうすぐ日本についての十冊目(『骨董』)が出版される」
という、生涯胸に抱きつづけた心情を八雲は明かしています。
来日前から『古事記』を読み、日本への思いを募らせていた八雲。1890(明治23)年の日本への出発を前に、世界一周の旅で日本に心ひかれたビスランドの言葉に背中を押されたのでしょう。八雲は来日前からビスランドに恋心を抱いていたふしがあります。ただ、若い頃の離婚の痛手がなお残り、踏み出せなかったのかもしれません。
加えて、この手紙では長男一雄の教育のため、1年か2年アメリカで働けるように取りはからってほしい、とも頼んでいます。
ビスランドも十数年ぶりに、どうしても八雲に会いたかったのでしょう。米国の大学で講義ができるように奔走しました。
「私以上にあなたを愛する人はいない」
東部の名門コーネル大学で20回連続講義の計画が立てられましたが、コレラの発生によってとりやめになりました。諦めきれない彼女は、ハーバード大学などに働きかけますが、結局、不首尾に終わります。この間、八雲は帝大を解雇され、心臓のほか、気管支炎を患い、手放せなかったタバコもやめざるを得ない症状にさいなまれます。
肩を落とす八雲に、ビスランドからこんな文面が送られました。
「あなたに病気と落胆が降りかかっているとは、毎日つらい思いのし通しです。私は自信を持っていますが、これまでだれ一人として私ほど誠実にあなたに愛情をもっているものはいません。あなたの最初の一行を読んで以来これまでの年月ずっと、あなたから頂いた無限の楽しみと霊感に感謝しています」
彼女の熱意を意気に感じた八雲は、コーネル大学での講義向けに、これまでにない書物を書き上げていました。紀行文でも再話作品でもない、硬質な論考集です。日本人の精神史をテーマにしたそれは、図らずも日本とアメリカの転換期に大きな影響を及ぼすことになります。
前にも述べた、八雲の初めての伝記・書簡集『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』は、ビスランドの編集によって刊行されました。これにセツによる『思ひ出の記』も収められ、小泉家に収益が寄付されました。

