セツと子供たちのために金策を
国内外のできる限りの八雲の友人に声をかけ、八雲からの書簡を集め、これがビスランド編集の『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』に織り込まれます。八雲の帝大時代の講義録刊行にもこぎつけました。
セツに安定した収入をもたらそうと、八雲邸の敷地に借家を建てることにしました。この資金調達のため、ニューヨークの出版社に2作品の著作権を売却します。これは大きな支えとなりました。
横浜を愛していたマクドナルドは海軍を退役し、横浜グランドホテル社長になります。現在の山下公園前、ホテルニューグランドがあるあたりの、横浜港をのぞむ地にあった高級ホテルです。
独身ということもあり、一雄をわが子のように可愛がっていました。
30歳になる頃の一雄は、マクドナルドの秘書兼倉庫係を担っていました。早朝5時半から午後7時過ぎまで、というきつい勤務でした。そのうえ英作文の宿題も与えられました。マクドナルドはゆくゆくは一雄を後継者に、という思いがあり、米国に留学させるつもりで鍛えていたのです。
地下にあった倉庫では作業衣を着て、何かの用事があって階上にあがる時は背広に着替えて、用事をこなす多忙な日々。ハードワークが続いたせいか、一雄は風邪をこじらせ、肺炎を患いました。マクドナルドも心配を募らせ、信州で転地療養をすることになったのです。
横浜グランドホテル社長だったが…
これが運命の分かれ目でした。
1923(大正12)年9月、横浜グランドホテルは関東大震災による火災で燃えあがります。マクドナルドは避難しましたが、「アメリカ人女性が取り残された」という情報を耳にして、矢も盾もたまらず建物に引き返し、そのまま帰らぬ人になりました。
信州にいた一雄は難を逃れましたが、震災の報を聞き、鉄道で群馬・高崎まで戻り、そこで野宿をした翌朝、貨物列車と徒歩で何とか帰京します。西大久保の家でセツら家族の無事を確かめた後、ただちに瓦礫の都市と化した横浜へ赴き、マクドナルドの殉職を知ります。第二の父も失ってしまった。言いようのない悲しみに一雄はうちひしがれました。
マクドナルドは八雲と妻子を全力で支えてくれた大恩人です。関東大震災から100年以上となる現在も、浄心院殿法興密英居士という彼の戒名が刻まれた位牌を、小泉家では仏壇に据え、手をあわせています。
震災による被害がすさまじかったことから、小泉家は八雲の蔵書を安全に保管できる大学へ一括譲渡したい、と考えるようになりました。その頃、開校の準備が進められていた旧制富山高校が名乗りをあげます。譲渡にあたっては当時のお金で2万円もの金額が支払われました。現在でも富山大学には八雲の愛読書など2400冊余りが揃い、「ヘルン文庫」という名で保管され、八雲の足跡をたどる人に活用されています。



