フロイスが驚愕した岐阜城の内部

岐阜城は標高329メートルの金華山頂の要塞部と、山麓の居館部の二重構造で、「豊臣兄弟!」の第9回では、4層の御殿(事実上の天守か)を中心とする居館部を再現した映像が流された。この信長の城について、永禄12年(1569)7月に、信長みずからの案内で見学したフロイスは、以下のように書いている。

「彼(信長)は自らの栄華を示すために他のすべてに優ろうと欲しています。それゆえにこそ、彼は多額の金子を費やし、自らの慰安、娯楽としてのこの宮殿を建築しようと決意したのであります。宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます」(松田毅一、川崎桃太訳、以下同)

写真=MaedaAkihiko /CC0/Wikimedia Commons
現在の岐阜城。1956年に建てられた模擬天守だ。

フロイスは山麓では、庭園や水の流れを複雑にからませた御殿(宮殿)を細かく観察。その一部を引用しよう。

「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます」

もちろん3階、4階にも上がっている。また、山頂も訪れ、「この前廊に面した内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました」と記している。

信長の手がわずかに動くだけで…

だが、フロイスには、城そのものに感嘆する以上に驚いたものがあった。「もっとも私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)がいかに異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました」と感想を述べ、次のように書くのである。

「彼(註・信長)が手でちょっと合図するだけでも、彼ら(註・家臣たち)はきわめて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人呼んだだけでも、外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差し支えがありません」

信長が手をわずかに動かしたり、だれか一人を呼んだりしただけで、周囲にいる人たちがみな慌てふためき、即座に席を立ったり、電光石火のごとく返事をしたりした様子が伝わる。信長は周囲を震え上がらせるレベルで畏怖されていたことがわかる。

しかも、そういう態度を取らなければならないのは、身分が低い者だけではなかったようだ。