信長の四国戦略の変更
信長は10年にわたって大坂本願寺と戦いながら、本願寺方について、水軍を駆使して抵抗する阿波(徳島県)の三好家に手を焼いてきた。このため、土佐(高知県)を拠点とする長宗我部元親を利用して、三好を攻略することを考えた。天正6年(1578)10月には、元親の嫡男に「信」の字をあたえて「信親」と名乗らせ、元親が四国全土を攻略することを容認した。その際、信長と長宗我部家をつなぐ「取次」の役を担ったのが光秀だった。
ところが、天正8年(1580)8月に大坂本願寺との戦いが終わると、信長は一転して、元親の勢力拡大を危険視しはじめた。ちなみに、本願寺攻めの責任者が前述の佐久間信盛だったから、信盛追放と同時に、信長は四国戦略を変更したことになる。
翌天正9年9月ごろ、信長は光秀を通じて元親に、支配地域は土佐と阿波の南半分にとどめるように指示したが、元親は「約束が違う」と拒否。すると信長は、阿波は阿波三好家出身の三好康長の支配下に置くので、元親は土佐1国だけで納得するように、とさらに厳しい条件を突きつけた。
なぜ光秀が元親の取次を務めたのかだが、元親の事績を記した『元親記』によれば、元親の妻が光秀の重臣である斎藤利三の義理の妹で、利三が元親の小舅だったからだという。光秀は長宗我部家が滅ぼされないためにも、信長の命に従うように必死に説得したが、元親からは返答がない。次第に光秀は立場が追われ、元親との縁のきっかけとなった斎藤利三との関係も微妙になっていく。
秀吉の活躍のせいで追い詰められる
ところで、信長が元親の勢力拡大を危険視するようになったのは、秀吉が進めていた中国地方の対毛利戦略が、思いのほか進展したからだった。天正8年(1580)の時点で、秀吉は播磨(兵庫県南西部)の三木城(兵庫県三木市)を兵糧攻めの末に落とし、弟の秀長の力で但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路を制圧して、播磨灘の制海権を獲得していた。
秀吉は淡路の領有化を進める過程で、信長が手を焼いてきた阿波の三好家を麾下に取り込んでいった。すなわち、瀬戸内海の制海権を握る毛利水軍と三好水軍に対し、前者に対しては調略を進め、後者は取り込んでいったのだ。
こうして秀吉が、三好家を服属させつつ瀬戸内海の東半分を確保したおかげで、信長としては、長宗我部の力を借りずに済むことになった。だったら、むしろ長宗我部の勢力が大きくなりすぎないほうがいい。この状況と戦略の変更に翻弄されたのが、長宗我部への取次を一手にまかされていた光秀だった。
そして元親から返答がないまま、光秀は元親への最後の説得を試みていた。ところがその最中に、信長は三男の信孝を総大将として、元親征伐を兼ねた四国出兵の命令を下してしまう。しかも、出兵が予定されていた日は6月3日、すなわち本能寺の変の翌日だった。

