光秀の城とそっくりな秀吉の城
天正元年(1573)9月に近江の浅井長政が滅ぼされると、秀吉はその功績を認められ、信長から浅井氏の旧領の支配を託された。しかし、浅井氏の拠点であった小谷城(滋賀県長浜市)は、琵琶湖から離れていることなどから避け、琵琶湖沿いの今浜にあらたに築城し、地名を長浜とあらためた。
この長浜城が坂本城とそっくりだった。やはり琵琶湖に面した平地に築かれた「平城」および「水城」で、堀には湖水が引き入れられ、本丸には天守が建った。また坂本城同様、時代に先がけて石垣で固められた。いずれも湖畔には、城を囲むように城下町が形成され、城下町を統率する拠点としても有効に機能した。
2つの城が築かれるに際しては、琵琶湖の水運を軍事的にも経済的にも最大限に有効利用しようという、信長の戦略的な意図が働いたと思われる。
とはいえ、ライバルたる光秀が築いた坂本城が、フロイスに賞賛されるなど、かなりの評判を勝ちとっていたという事実に、秀吉が刺激されなかったはずがない。よく似た2つの城がともに、光秀と秀吉にとっての出世城と呼べるほど、その後の2人は順調に出世を重ねていった。
光秀と秀吉の評価が入れ替わったワケ
こうして天正8年(1580)、すなわち本能寺の変の2年前の時点では、「各方面で複数の分国から動員した大規模な軍団を指揮し、麾下だけで敵対する戦国大名と戦える部将は、中国の羽柴秀吉、北陸の柴田勝家、そして畿内の光秀という三人にしぼられた」(桐野作人『本能寺の変の首謀者はだれか』吉川弘文館)。
しかも、この3人のなかでは、最重要の畿内を任されていた光秀が、織田政権における事実上のナンバーツーだったといえよう。
この年の8月、信長は筆頭家老で長年の功労者であった佐久間信盛に、十九カ条の折檻状を突きつけて消極的姿勢を指弾し、高野山に追放した。その第三条には「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし」と書かれている。真っ先に光秀、次に秀吉の名を挙げ、2人を絶賛しつつ、比較して信盛を攻めているのだ。
つまり織田家の重臣中、光秀と秀吉が特別で、このライバル2名のうちでは、光秀のほうが覚えはめでたかったことがわかる。ところが、天正8年(1580)8月ごろから光秀の立場は失われていった。

