秀吉は砦を使い捨てた

だが、秀吉が永禄9(1566)年に築いた墨俣一夜城は、城郭ではなくとりでだったはずだ。砦とは急ごしらえの臨時軍事拠点で、竹や木で作った柵や、土塁・空堀などを中心とした簡易なものだ。

『絵本太閤記』に登場する「洲の股の砦」は石垣や櫓まであるが、もちろんこれは空想の産物。国立公文書館所蔵
『絵本太閤記』に登場する「洲の股の砦」は石垣や櫓まであるが、もちろんこれは空想の産物。国立公文書館所蔵

『時代劇の「嘘」と「演出」』(洋泉社)に、面白い話が載っている。

平成8(1996)年、竹中直人主演の『秀吉』第6回のタイトルは、そのものずばり「墨俣一夜城」だった。同作の時代考証を担当していたのは、前述の小和田哲男。小和田は制作スタッフに、撮影セットはくれぐれも城郭ではなく砦としてほしいと念を押したという。セットに城が出現するのは認め難かったのだろう。

秀吉は“砦マニア”といえるほど、各地に砦を築いている。例えば天正9(1581)年、鳥取城攻めの際に本陣山の山頂に築いた陣城(前線基地)である太閤ヶ平たいこうがなるを中心に、大規模な連砦れんとりでの遺構が残っている。

また天正12(1584)年、徳川家康・織田信雄と激突した小牧・長久手の戦いでも、敵方の倍近くの数の砦を築いた。現在は石碑が立っている。

秀吉は必要に応じて砦を急増・量産し、戦いが終われば廃棄した。「もったいない」などという考えは、一切なかったろう。一度拠点として築いたものは後々まで守るという、武士的な発想がなかったからかもしれない。

そして、全国に残る砦の跡を見た人は後世、「秀吉なら墨俣に築いても不思議ではない」と考えたのではないだろうか。

陰の立役者“川並衆”の正体

砦は戦略的な要衝に築くことが多い。墨俣も美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の国境に位置し、長良川沿いにあって水運の利便性に長けていた。

秀吉は美濃の水運業者・川並衆かわなみしゅうに協力を依頼し、美濃勢に気づかれぬよう、川を使って竹や木材を墨俣に運び込むことに成功したとある。

『武功夜話』によると、この川並衆が蜂須賀正勝、前野将右衛門といった土豪だ。実は川並衆とは『武功夜話』にだけ見える呼称で、そうした呼び名が実在したかは不明だというが、彼らがそもそも木曽川や長良川の流域に勢力を持った一族だった可能性は高い。

また『武功夜話』には、川並衆が出入りしていた有力者・生駒氏の屋敷に娘がおり、彼女が信長のお手付きとなって嫡男・信忠、次男・信雄、そして徳川家康の嫡男・信康と結婚した五徳ごとくを産んだという話を所収している。

上記の信長の3人の子は、母親が誰だったかがはっきりとわからないが、母を生駒氏の娘とするのは『寛政重修諸家譜』(寛政年間に江戸幕府が編纂した大名・旗本の家譜集)の系譜図と一致している。

さらに将右衛門と正勝は桶狭間の戦いでも信長のもとに馳せ参じていたものの、十分な恩賞にあずかれず不満を抱えていた。そこに秀吉が協力を依頼してきたため、今度こそ実力を認めさせてやるとばかりに、水運と土木作業に邁進。墨俣一夜城を瞬く間に完成させたとある。

蜂須賀、前野は、こののち秀吉に仕える。こうした点を見ても、『武功夜話』はところどころ、のちの系図や史実とシンクロしている。

『太平記英勇伝 七十八 八菅與六(蜂須賀小六)正勝』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『太平記英勇伝 七十八 八菅與六(蜂須賀小六)正勝』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵