子会社の大半は、東京に集約された。当事者たちの賛同を経て、無駄を削った子会社群の経営効率は上がり、業績はいい。いま連結売上高の1割程度を占めるだけだが、利益は3分の2も稼ぐ。そうしたグループ経営の基盤を、この時期に固めた。

95年、取締役に就任し、ビッグバン委員会を統合した経営企画室の室長に就く。コスト削減を続ける一方で、「攻め」の戦略の立案・推進も担う。40代最後の年だった。

まず、黒字化の見通しが立たないまま動き出していた東京・新宿への出店計画を、洗い直す。従来の慣行にとらわれない「ローコスト運営」を工夫した。経営基盤の強化に、物流拠点を売却し、賃借りに換える。どちらも、97年4月に消費税が3%から5%へ引き上げられることになっていて、売り上げ減が予想されたことから急務のことだった。

経営企画室長時代に、さらに2つの大きな出来事に遭遇する。1つは経済界で相次いで摘発された総会屋事件で、高島屋からも逮捕者が出たこと。もう1つは、全く足場のなかった名古屋地区への出店だ。

総会屋への資金供与で総務部長らが逮捕された96年6月8日、すぐに約15人の室員を集めた。事態がわからないままでは、誰もが、何をすべきかわからない。だから、状況を説明して、付け加えた。「こういうときは、お前たちがしっかりと社内へ発信していけ」。隠すことはせず、動揺もみせず、部下たちを力づける。いつもの鈴木流だ。

JR名古屋駅への出店は、JR東海は当初、別の百貨店と交渉していた。それが不調に終わり、話が回ってきた。大型の新宿店開業を控え、社内では戦線拡大に続々と反対意見が出る。役員会では、ビッグバン委員会の初代委員長を務めた先輩と2人だけが、積極論者だった。