秀頼にとって浅野父子の死は…

家康と秀頼の間に政治的な緊張感が高まる中、長政・幸長父子が相次いで死去する。慶長16年4月に長政は死去。享年65。2年後の慶長18(1613)年8月に幸長が死去。享年38だった。秀頼にとって父子の死去は痛手だったという。

翌慶長19年、大坂冬の陣が起こる。幸長に男子がなかったため、次弟・浅野但馬守長晟(1586〜1632)が家督を継ぎ、徳川方として参陣。翌元和元(1615)年5月の大坂夏の陣でも奮闘した。同元和元年11月、家康は三女・振姫(1580〜1617)と長晟を婚約させ、翌元和2年1月に婚礼が行われた。

浅野幸長の子で広島城主となった浅野長晟の肖像、17世紀頃(広島市中央立図書館所蔵)
浅野幸長の弟で広島城主となった浅野長晟の肖像、17世紀頃(広島市中央立図書館所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

長政の子どもたちはどうなったか

長政には少なくとも3男3女および2人の養女がいた(★は嫡出)

長男 浅野紀伊守幸長(1576~1613) 妻は池田恒興の四女
次男 浅野但馬守長晟(1586~1632) 妻は徳川家康の三女・振姫
三男 浅野采女正長重(1588~1632) 妻は竹谷松平家清の四女(家康の義姪)
長女 杉原伯耆守長房(北政所・寧の従兄弟)の妻
次女 堀美作守親良(堀秀政の子)の妻
三女 久松松平越中守定綱(徳川家康の甥)の妻
養女 多羅尾久八郎光雅の妻(浅野藤七郎長継の娘、長政の従姉妹)
養女 船越伊予守永景の妻(杉原伯耆守長房の娘、長政の外孫)

長政の子女が展開する閨閥は、はじめは秀吉の意図、中途から家康の意図が滲み出るものになっている。

長男・幸長は池田恒興の娘を娶っている。秀吉は天正9年頃から恒興の歓心を買うため、様々な努力を重ねている。恒興の三男・長吉を養子にもらったり、甥の三好信吉(のちの豊臣秀次)の正室に恒興の次女をもらい受けたり。義理の甥にあたる幸長と恒興の末娘の縁談をまとめたのも、秀吉に違いない。

北政所・寧の従兄弟にあたる杉原伯耆守長房は、なぜか幼少の頃から両親と離別し、長政の下で育てられ、その女婿になったのだという。

戦後に再建された広島城(広島市)
写真=iStock.com/thanyarat07
江戸時代に浅野長晟が初代藩主となった広島藩、戦後に再建された広島城(広島市)