ねねの甥・浅野幸長は武闘派
長政は部将というより実務官僚のようであるが、天正18年の小田原征伐では5月中旬から前田利家、上杉景勝らとともに鉢形城攻めに参陣。次いで本多忠勝、平岩親吉、鳥居元忠ら徳川家家臣とともに岩槻城を攻め、さらに石田三成らと忍城攻めに加わった。
岩槻城攻めでは嫡男・浅野紀伊守幸長(1576〜1613)の奮戦著しく、秀吉から脇差しを与えられるほどの賞賛を浴びた。幸長は父と違って武功派だったのだ。
文禄2(1593)年に甲斐府中城主・加藤光泰が死去すると、その後任として浅野長政・幸長父子に甲斐21万5000石が与えられた。内訳は長政が5万5000石、幸長が16万石である。このことが示すように、浅野家ではすでに世代交代が進みつつあった。
朝鮮出兵では幸長が渡海し、文禄4(1595)年に一時帰国するも、慶長2(1597)年6月に再び渡海。加藤清正が守る蔚山城の普請工事に従事した。
幸長は石田三成と敵対、徳川側に
秀吉の死後、朝鮮から帰還した加藤清正・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興、および浅野幸長の七将は、三成に遺恨を抱き、慶長4(1599)年閏3月に前田利家が死去すると、三成襲撃へと動いた。
一方、父・長政は「五奉行」の筆頭として、同僚の三成と嫡男・幸長の板挟みとなる。
しかし、同慶長4年9月に前田利家の親戚筋による家康暗殺計画が発覚。長政も謀議に加担したと疑われ、奉行職を解任。国元での蟄居を余儀なくされた(幸長が前田利家の五女と婚約していたからだという。ただし、五女は結婚前に早世している)。
翌慶長5年9月、幸長は関ヶ原の合戦で家康方につき、合戦後は紀伊和歌山37万6560石に大幅加増された。
慶長8(1603)年に家康の孫・千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ際に、幸長は大坂城に赴き、輿の受け入れを担当した。また、慶長16(1611)年3月に二条城で秀頼と家康が会見した際、幸長は加藤清正、池田輝政、藤堂高虎とともに会見に立ち会い、「秀頼の臣下としての立場を鮮明にしつつ秀頼護衛に心血を注いだ」(『関ヶ原合戦と大坂の陣』)。
しかし、幸長と清正は微妙な立ち位置にあった。実は家康は会見にあたって秀頼と同年代の息子、九男・徳川義直、十男・徳川頼宣をともなっており、幸長の次女が義直、清正の次女が頼宣と婚約していたのだ(ともに慶長14年に婚約)。

