親しまれた「ひげの殿下」の夫婦破綻

三笠宮家の長男として生まれた寛仁親王は、国民の間で「ひげの殿下」の愛称で親しまれ、障害者福祉やスポーツ振興など幅広い公務に積極的に取り組んでいた。しかし、1990年代以降は、癌や重度のアルコール依存症で苦しんでいた。

そのことについて、皇族として果たさなければならないことと、自分が本当にやりたいこととの間にギャップが生じていたことが大きなストレスになったと言われている。だが、それに追い打ちをかけるように、夫婦仲の悪化も起こっていたのである。

寛仁親王が信子妃を見初め、最初に結婚を申し込んだのは、信子妃が16歳のときだった。今は、男女とも結婚できるのは18歳からだが、2022年3月末までは、女性は16歳から結婚できた。その点では結婚も可能だったが、信子妃が高校生だったこともあり、実際に結婚したのはその8年後だった。

寛仁親王は信子妃にかなり熱を上げたことになる。結婚後も2人でテレビのバラエティー番組に出演したりしていた。けれども、寛仁親王の病や、アルコール依存症に対する治療の問題で夫婦の間に対立が生まれ、さらには信子妃のほうもストレス性喘息になり、2004年以降は別居状態となった。

男子のいない宮家「三笠宮寬仁親王妃家」初代となった寛仁親王妃信子さま(2017年撮影)
男子のいない宮家「三笠宮寬仁親王妃家」初代となった寛仁親王妃信子さま(2017年撮影)(写真=防衛省/海上自衛隊東京音楽隊:横浜開港記念祭/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

皇族にとって難しい離婚という選択

彬子女王や瑶子女王からすれば、寛仁親王が癌やアルコール依存症で苦しみつつ公務をこなしているにもかかわらず、信子妃はそれを置き去りにして別居した上、公務についても病気の療養を理由に休止していたことが納得できなかったようだ。

そのため、寛仁親王が亡くなった際に、信子妃はそれを看取ることはなく、また、亡くなった後の儀式にも参列しなかった。三笠宮家の関係者は、娘2人がもともと「パパっ子」で、その絆は別居後により強いものとなったと指摘している。娘たちには、「病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて」という気持ちがあったようだ(『女性自身』2012年6/26号)。

夫婦は、いくら強い愛で結ばれたとしても、もともとは他人であり、その関係を良好なものに保つのは難しい。まして寛仁親王の場合には皇族の一員であり、その立場は一般の国民とは大きく異なっている。離婚ということも選択肢の一つだが、少なくとも戦後、皇族が離婚した例はない。

戦前になると、皇族の結婚や離婚は天皇の許可を要する事柄であり、戦後以上に難しかった。戦後に皇籍離脱した旧宮家の人間が離婚した例はあるが、近代になってから皇族が離婚したことはない。