母子の確執に存在する背後の影

しかし、こうした三笠宮家における母と娘の確執の背後には、寛仁親王とその父である崇仁親王との間の考え方、思想の違いということが、実は影を落としているのではないだろうか。

天皇家に生まれた親王であれば、皇位を継承することが将来に待ち受けている。ただ、天皇家でも弟ということになると、その可能性は低くなる。崇仁親王は、昭和天皇の4人の兄弟の末弟である。自身が天皇に即位することなど、生涯考えなかったであろう。

その点で、崇仁親王は自由な立場にあり、戦前は軍人として、戦後は学者として主に活動した。軍人として経験があったことから、日本軍のあり方には批判的で、著書の中では「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」と述べていた。痛烈な批判である。

そうした姿勢は、学問を続け、科学的、実証的な立場を取ることでよりいっそう強まった。皇室の閉鎖性を表すものとして「菊のカーテン」という表現があるが、崇仁親王はその言葉を最初に使った一人であると言われる。

「建国記念の日」制定の運動に対しても、著書の中で、それが戦前の紀元節の復活に通じるとし、国粋主義的な動きを警戒する見解を示していた。崇仁親王は戦後、一貫して「リベラル」な立場を取り続けたのである。

リベラルな父に対する息子の真逆な姿勢

崇仁親王が女性天皇や女系天皇について自らの見解を発表したわけではない。ただ、そのリベラルな姿勢からすれば、それを容認する国民の声に耳を傾けた可能性は高いのではないだろうか。

それに対して、寛仁親王の場合には、むしろこの問題に対して伝統を重視する保守の立場に終始した。自らが会長を務める福祉団体の会報では、私的な見解と断った上で、女系天皇に反対し、旧宮家の皇籍復帰を主張していた。しかも、可能性は低いとしつつも、側室制度の復活さえ提唱していた。

三笠宮崇仁親王第1王子の寬仁親王(2003年撮影)
三笠宮崇仁親王第1王子の寬仁親王(2003年撮影)(写真=belloak/CC-Zero/Wikimedia Commons

その際に、「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」があることを強調していた。小泉内閣の時代に、有識者会議が「女性天皇・女系天皇」を容認する答申を行った時期にも、寛仁親王は、インタビューで同様のことを述べていた。

私には、寛仁親王がこうした発言を行った背景には、リベラルな方向に傾いた父、崇仁親王に対する反抗の姿勢があったように感じられてならない。リベラルな姿勢を取るなら、神話とそこに登場する神武天皇は架空のものとして、その価値は否定される。それは、皇族を皇族たらしめている基盤を突き崩すことに通じる。寛仁親王は、それを怖れ、父親とは真逆の姿勢を取ったのだ。

あるいは、そこには皇室の中でも、三笠宮家が傍系であったことが影響しているのかもしれない。天皇家であれば、あえて自分の家の出自を強調する必要もない。だが、傍系となると、往々にして、自らの正統性を誇示したくなるものである。