24歳の青年はヒグマに連れ去られ…
概略は『林』(1953年12月号)で犬飼哲夫教授が記録している。
白昼に道路を通行中に熊にさらわれた青年がある。
昭和六年十一月に上川郡温根別村にあったことで、午前十時頃道路から人のはげしい悲鳴が聞えたので、皆が駈け寄って見たら、道に小さな風呂敷包みと鮮血に染った帽子が落ちていて、誰かが熊に襲われたことが判り大騒ぎとなって捜索したところ、天理教布教師の原田重美さんという二十四才の青年であることが判った(後略)(「熊」)
『熊・クマ・羆』(林克巳、1971年)によれば、事件が起きたのは《一度降った雪も消えて、小春日和を思わせる晩秋の日》であったという。
他にもいくつかの記録があるが、なかでも『士別よもやま話』(士別市郷土史研究会、1969年)の及川疆の談話が詳しいので適宜引用する。
旭川で用事を済ませて帰宅途中の天理教の原田布教師が、大津澱粉工場を過ぎて百メートルほどのところで、突然飛び出してきたヒグマに担ぎ上げられ北側の斜面に連れ去られた。
布教師の悲鳴は澱粉工場にも伝わり、働いていた連中は屋根に逃げるなど大騒ぎとなった
2時間で「体の半分」が食い尽くされた
新聞によれば、通報と同時に警察隊が組織され、午後0時半頃に落葉松林内で発見、射殺した(「小樽新聞」昭和6年11月8日夕刊)。
加害熊の遺体は市街地に運ばれて解体されたが、腹の中から被害者の肉体が取り出されると、現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。
死体の半分はすでに喰われていてこの半分というのが消防番屋「現士別信金本店」で町民のみている中で老兇漢の腹中から血糊と一緒にとり出される。
こわいものみたさ女ヤジ馬も現代言では失神とか、この山の王者のなれの果て、目方はそのまま測らなかったが脂気一つない肉だけですら四十三貫もとれたというからこれが健康なら優に百貫はこえていたであろう。
被毛が頭から肩にかけ僅に生えているだけの裸も同様、ひどい虫歯で満足なものは一本もない。目も鼻もただれていてこのままではとうてい冬は越すことが出来なかったにちがいない。
ひ熊が人を襲うのは何の理由もなしにするものではなく、いろいろの条件が重なった結果であることを証明する様な事件であった(及川疆)
かつての「山の王者」は、栄養不良のために粘膜がただれ、歯は欠け、体毛が抜け落ちていた。生き延びるためには、危険を冒してでも人を襲うしかなかったのである。

