ミニマリストの部屋ほど「うるさい」ものはない
突然だが、最近のテレビでしばしば取材されるミニマリストにありがちな、ワンルームの部屋を想像してみよう。
小さなベッドとラップトップPCがひとつ。それですべてが完結する暮らしがそこにある。
これに私は以前から違和感を覚えていた。
「なるほどスッキリしてていいね」とは思えなかった。
ミニマリストたちの暮らす、必要最低限のもの以外にはなにもない空間は一見するときわめてノイズレスに見える。だがその極端なまでに余白だらけの部屋を目の当たりにしたとき、四方八方から「なにもなさ」を執拗に強調する、ある種の“うるささ”を感じていたからだ。
部屋のどこを見渡しても、たしかに目にはほとんどなにも映らない。シンプルなクロスの張られた壁面だけが見える。視界に入る物理的な情報は乏しい。
だがそのなにもないはずの壁からは、「お前自身には物欲がないのだ」という、目に見えない、耳にも聞こえない言葉が絶えず投げかけられているような、そんな感覚を覚えるのだ。部屋全体からそこで暮らす自分の「欲のなさ」を反響的に自己演出しているというか、「自分は欲のない人間だ」と四六時中おのれに言い聞かせている、そういう“自己抑圧”を感じたのである。
つまりなにが言いたいかというと、ミニマリストというのは、選択的なライフスタイルというより、ある種の適応なのではないかということだ。自分を常に「欲のない人間だ」ということにしておけば、上にあがっていくためにハードな努力をせずともよいし、事実として生活維持コストも低いだろうからゆるゆるとスローに生きていくことも「自分は十分満たされている(無駄に頑張らなくてもすでにアガリに到達している)のだから」ということで正当化できる。きわめて「コスパ」のよい、合理的選択としてそのような生き方が選ばれている。
「欲望を持たない」のは「善いこと」なのか
いまはSNSで「欲望を持たない人のほうが善い」というムードがつくられている。タワーマンションやハイブランドや高級時計を求める人に対しては、いくらでも下品だの拝金だのと馬鹿にしていいことになっている。逆にサイゼリヤや業務スーパーで満足する人のほうが道徳的にも“ただしい”ことになっている。欲を持つことは邪であり、欲を叶えるための努力は卑しい。それならいっそ、欲を持たず何もしない人のほうがずっと清く正しい、というものだ。
「コストのかからない生き方」をするほうが、コスパ・タイパの観点から言っても妥当で合理的であるということになっている。物欲を持つことは「余計な努力をしなければならない状況を自分でつくりだしている」ということで、損得計算のできない馬鹿扱いされてしまったりもする。最初から“余計な”欲を持たなければ、自分の時間をもっと「有意義」に使えるのに、と。
そういったスタンスはいちいちもっともらしく聞こえるし、理がないわけではない。けれどそれらは結局のところ「欲」を持ったときに自分が向き合わなければならない義務課題が嫌で怖いだけのことを、賢しらに言い繕って有耶無耶にしているという、それが心の奥底にある本音なのではないか。

