※本稿は、三浦瑠麗『心を整える時間 軽井沢のくらし12ヶ月』(あさま社)の一部を再編集したものです。
SNSもニュースチェックも忘れてしまう
時折、SNSを見るのもニュースをチェックするのも忘れてしまうことがある。実務家としてはよくない癖だが、わたしはどちらかというと作家としての比率が高いから、それはそれでよいのだろう。
頭の中にどれだけのものを入れておいて、どれだけの時間寝かせてどれほど出すのかというバランスは、その人の個性にもよるし、そのときどきで変わることが多い。情報を入れすぎると、他人の模倣や大勢の意見の最大公約数になってしまう場合だってある。また色んな人の意見を観測しすぎると、新規性を探ったりバランスをとろうとして自分の意見の目盛り位置を動かしてしまいがちだ。しかし、何も入れなければ刺激はなく学びもない。手触りがわかるようなほどほどの付き合いがいい。
人はつい知識を入れ込むことを重視しがちだ。けれども、知識を入れなければという圧は無駄な競争を生んでしまう。競うように情報を摂取してそれを発信し、意見を述べることがまるで勝ち負けのかかったゲームのようでもある。しかし、勝つことが目的でさえなければ、分からないことはすなわち面白いことであり、慌てることもない。
情報の渦の中に巻き込まれてしまうと、あらかじめ被せられた結論がありとあらゆる方向から降ってくるので、物事に面白さを感じにくくなるだろう。
どこの視点から物事を視るか。俯瞰するまなざしの遠さと寄ってみる近さを併用することが、どういうわけかわたしには昔から自然と身についていた。理想と現実のバランス。客観と主観の共存。ちょっとだけ非科学的なことを言うと、いかにも天秤座らしい性格。
カメムシを「気持ち悪い」と思う理由
物事に寄って視る、というのが観察的態度だ。カメムシをじっと見ていると、その足の動きや旋回で彼らが混乱していることが分かる。「ああ、気持ち悪い! 怖い!」と思うのが主観である。そのとき人は虫を見ているようでいて見てはいない。カメムシはたしかにむやみに音を立て飛び回ることで物体として不快感を与えているが、それよりも「嫌な虫!」という概念として存在しているからだ。
もちろん、わたしも取りたてて虫が好きなわけではない。とくに触角の長いものや足の多いものが家の中に紛れ込むのはきらいだ。ただ、その感情と観察眼を矛盾なく併存させられるタイプの人間なのだろうと思う。
こうした性格、あるいは傾向は、人間関係においても利点がある。怒ることが少なくなり、人を許せるようになること。短く言えば、「嫌だな、と思っても、そうなのだな、で片付ける態度」だ。
これはどちらかというと、人工物に満ちた街中でくらすよりも自然と付き合うことで育まれていくものだと思う。人びとは放っておいても地下鉄やバスは来るものと期待するが、自然と接するくらしの中では、いろいろなことを自分から進んでしなければいけなくなる。「このボタンを押せばこうなるはずだ」と当然視できなくなるということだろう。

