警察部長までもが平謝り
淑子の名誉のために述べておくと、船を利用した日に淑子は海開きの挨拶をしているので、完全に私用であったかどうかは判然としない。しかし、そんな事実関係よりも驚くべきは、この激怒ぶりである。
県会議場に乗り込んで弁明しようとしたというのだから、相当なものだ。現代でいえば、県知事の娘が議場に乱入して演説を始めようというのである。
当時の県知事は中央から派遣されてくる要職であり、その令嬢ともなれば誰もが下にも置かない存在だ。それが、度を越してブチ切れているのだから、周囲は震え上がったことだろう。
「一時は容易ならざる騒ぎ」と記録されているが、注目すべきは事態収拾に当たった面々である。書記官はもちろん、県警のトップである警察部長までもが「仲裁兼詫」つまり、仲裁しながら詫びを入れたというのだ。当時の警察部長といえば、県知事の次ぐ、県内屈指の権力者である。そんな役職の人物が令嬢に平謝りしている光景を想像すると、淑子の怒りがいかに凄まじかったかが分かるだろう。
父親から剣術を伝授されていたという淑子だが、気性のほうもしっかりと受け継いでいたようである(鉅鹿敏子『県令籠手田安定』中央公論事業出版 1976年)。
諜報員には「高慢な表情の美人」と映った
さらに淑子を調べてみると、もっと詳細な彼女の気性を記した史料が見つかった。後に淑子は、長崎県の士族・近藤範治という人物に嫁いでいる(人事興信所『人事興信録』1903年)。この範治という人は、篤志家で結婚後は夫婦で朝鮮半島に渡り元山で源興学校という学校を開いている。この学校は、当時朝鮮半島に生まれていた日本語で教育を行う近代式学校のひとつだった。
ここでまた淑子は事件に巻き込まれている。1904年に日露戦争が勃発すると、範治は陸軍に通訳として雇用され出征、乗っていた船が拿捕されて捕虜になってしまったのだ。こうして夫の留守に学校を守ることになった淑子だが、学校を管理する日本領事館は「女性ではいけない」と淑子を排除する動きをみせた。一度は追い出された淑子だが、生徒や父兄の支持を経て復帰、無事に夫が戻るまで学校を守り抜いたという。
そんな夫妻のことが、諜報活動のため、大陸へ向かう途中夫妻を訪れた石光真清(戦前に知られた軍事探偵)の回想録に書かれている。ここで石光は範治を無精ひげで無頓着だが、物腰が穏やかで愛想がよい人と記す一方で淑子には辛辣だ。
初対面の印象が「高慢な表情の美人」である。失礼といえば失礼だが、石光は軍事探偵、つまり人物観察のプロである。その目に映った第一印象がこれなのだから、淑子の雰囲気が相当なものだったことは間違いないだろう。

