警察の船を“私用で使った”と、議会で大問題に
短い期間とはいえ、松江で最初に世話を焼いてくれた女性である。ドラマでは脚色があるものの淑子が好意を寄せていたのは事実であろう。その関係が発展しなかった理由はなんだろう。
それを考えるために、淑子の人物像に触れてみたい。淑子については、史料により長女とするものや、三女とするものなど記述に違いがある。池野の著書によれば、淑子は内妻の娘であったとあるので、そうした関係で異同が生じているのだろう。ともあれ、松江まで連れてきたのだから安定が可愛がっている我が子だったことは間違いない。この淑子は才覚もあるということで、松江婦人会の会長も務めていた。
こう書くと、父親を陰日向で支える貞淑な令嬢のイメージもあるが、そうとばかりはいえない。八雲が松江に来る前のことだが、淑子は議会で取り上げられ地元の新聞に書き立てられるトラブルも起こしている。
当時、島根県警察は「警安号」という小さな船を持ち宍道湖や河川の警備を行っていた。この船は当時では珍しい蒸気船で県内でもとにかく目立っていた。そして、制度も曖昧な当時、警備だけでなく知事の移動のためにも用いられることがあった。それだけならいいのだが、ついには淑子までもが私用に用いるようになり、これが議会で大問題になったのだ。
“書記官の陳謝”に、淑子が激怒
当時の「山陰新聞」によれば、これが問題となったのは1889年11月の島根県会でのこと。右田三吉という議員が、この夏、警安号に女性の姿があったので、どうしたことかと調べたところ、淑子がお付きのものを従えて海水浴にいくために乗船したことが明らかになったと県知事を問いただしたのである。
知事に代わって答弁した書記官は、巡視中にたまたま淑子が自分は松江婦人会の会長であるとして乗船させるように迫ったこと。幾度か断ったものの、ほかに空いている船がないというので乗せざるを得なかったが、今後はこういう不心得のないように注意すると陳謝したのである。
これで議会は納得して終わりと思いきや、そうはならなかった。この議会での話を聞いた淑子が激怒したのである。『山陰新聞』の記事では「私は二度も断ったのに、警察のほうが問題無いから乗ってくれというから乗ったのだ」と淑子の主張を伝聞で伝えている。淑子は、自分が悪者にされたことを相当怒っていたようで、記事中ではこう記されている。

