パニックは起こらなかった

4万人が死亡し、4万6000人が負傷した。100万棟の建物が、破損、あるいは完全に破壊された。市内のイーストエンドと呼ばれる地区は、一面の焼け野原となった。これらすべてこそ、まさにイギリス政府が恐れていたことだ――しかし、ただ一点、ロンドン市民の反応だけは予想外だった。

パニックはまったく起こらなかった。ロンドンの街外れに建設された精神科病院は軍の病院に転用された。なぜなら、患者がまったくいなかったからだ。多くの女性と子どもは、爆撃が始まると地方に疎開した。しかし、市内にとどまる必要があった人たちは、たいていそのまま残った。

爆撃に無関心になるロンドン市民

ザ・ブリッツと呼ばれるロンドン大空襲が続き、ドイツ軍の攻撃がさらに激しさを増していくと、イギリス政府はあることに気がついた。驚いたことに、ロンドン市民は、勇敢だったのはもちろん、どこか爆撃に対して無関心になっているように見えたのだ。「1940年10月、私は空爆を受けた直後のサウスイースト・ロンドンを車で走った」と、あるイギリス人精神科医が終戦直後に書いている。

見たところ、だいたい100ヤード(約91メートル)ごとに、爆弾による穴が空いているか、かつては家屋や店舗だったと思われる建物の残骸があった。空襲警報が鳴り、私はどうなるかと思って見ていた。ひとりの尼僧が、連れていた子どもの手をつかみ、急いで逃げた。警報を聞いたのは、彼女と私だけであるようだった。小さな男の子たちは歩道のあちこちでずっと遊びを続けている。買い物客はそのまま値切り続け、警察官は悠然と交通整理を続け、自転車に乗った人たちは死をも恐れぬ態度で交通ルールを無視する。私の見るかぎり、誰ひとりとして空を見上げることさえしなかった。

これを読んだ誰もが、にわかには信じがたいと思うだろう。ザ・ブリッツは戦争だ。爆弾が炸裂さくれつすると、鋭い破片が四方八方に飛散した。そして焼夷弾は、毎晩のように、落とされた一帯を火の海にしていた。100万人以上の人々が家を失った。

毎晩、数千人もの人々が、シェルター代わりの地下鉄の駅に詰め込まれた。シェルターの外では、爆撃機の轟音と、爆発の衝撃の合間に、対空砲の発射音が鳴り響き、救急車や消防車のサイレン、空襲警報がいつ終わるともなく鳴り続けている。耐えがたいほどの騒音だ。

ロンドン市民を対象にしたある調査によると、1940年9月12日の夜の時点で、3分の1は前の晩にまったく眠れなかったと答え、もう3分の1は4時間以下しか眠れなかったと答えた。ニューヨーク市民がこの状況にどう反応するか、あなたは想像できるだろうか? 街にそびえるオフィスビルのどれか1つが倒壊する、それがたった一度ではなく、2カ月半もの間、毎晩続くのだ。