信仰が揺らいだことは1度もない

私は高校の勉強が面白くなくなり、マルクス主義や哲学に関する本を読み漁るようになった。今振り返ると、私には、当座の受験勉強から逃げ出したいという心理と社会問題に関する強い関心が混在していた。かなり難しい生徒だったと思うが、高校で倫理社会を教えていた堀江六郎先生が私の問題意識を正面から受け止め、熱心に指導をしてくださった。

カトリック教徒で、東京大学文学部と大学院で倫理学を専攻した教養人だった堀江先生は、「大学入試の準備も兼ね、英語の思想書を読みましょう」と、米国の神学者ラインホルド・ニーバーの『光の子と闇の子』(The Children of Light and the Children of Darkness)をテキストに指定した。高校生にとってかなり手応えのある英文だったが、堀江先生は丁寧な英文の解析とともに、哲学や神学の専門語についてもわかりやすく解説してくださった。講義の中で、今でも鮮明に記憶に残っているのが以下の内容だ。

「ニーバーは、新約聖書『ルカによる福音書』16章8節に書かれた<この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。>というイエスの言葉を念頭に置いています。

ナチスが闇の子、つまりこの世の子であるのに対して、民主主義者も共産主義者も光の子です。社会には構造的な悪が存在する。悪に対抗するためには力が必要です。しかし、力には常に自己絶対化の誘惑がつきまとう。民主主義者も共産主義者も、『自分が絶対に正しい』と思想も行動も硬直していく傾向があります。

これに対し、闇の子は『自分が絶対正しい』とは思っていません。正邪、善悪などの価値観に闇の子は無関心です。ヒトラーはシニカルでニヒルですから、力にだけ依存してどのような残虐な行動も躊躇することなく取ることができました。

光の子に欠けているのは、人間の罪に対する認識です。パウロが述べている『わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている』という根源的な反省を欠いているのです。人間の罪について無自覚な社会改革の思想は、必ず悪政をもたらします」

この言葉が、徐々に私の考えに影響を与えた。社会問題に対するキリスト教徒の無自覚も罪だが、同時に、人間を絶対化しようとするマルクス主義者の発想にも罪があるように思えてきた。