朝ドラとは違う、実際の辻社長との出会い

やなせたかしの自伝『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)によると、辻との出会いは、1965年6月。やなせはミュージカルの舞台装置、「手のひらを太陽に」の作詞のヒット、NHK「まんが学校」の先生役での出演など、多岐にわたる仕事で多忙を極める中、持病の腎臓結石が再発。自信喪失に陥っていた頃、「みわ工房」の三輪宏氏という男性が訪ねてきて、「陶器」に絵や詩を描く仕事を依頼される。その後、円筒状のボール紙に絵や詩を描くチャイムが大ヒットするが、本業はふるわず、心は晴れない状態が続いていた。

やなせたかし、1953年ごろ
「まんがの先生」としてテレビに出ていた、やなせたかし、1953年ごろ(写真=『やなせ・たかしの世界 増補版』サンリオより/PD-Japan/Wikipedia

一方で、ラジオドラマ用に作っていた自作の詩がたまり、自費出版を考えるやなせが、陶器展で名刺交換をしたのが、当時社員6人程度の「山梨シルクセンター」の辻信太郎社長だった。同書でやなせは次のように振り返っている。

「山梨県の人だから、『山梨』はわかるとしても『シルクセンター』は意味不明。別に絹を扱っているわけでもない。会社そのものも何をやっているのかよくわかりません。手当り次第なんでもという感じで、ハンカチもあればサンダルもある。お菓子のケースもつくっていました。人形なんかの形で、中にキャンディを入れる。そのデザインを依頼しにきたわけです。頼みに来た辻さんもヘンだけれど、ぼくの方も『困ったときはやなせさん症候群』の便利屋だから、ほとんど断ることはありません。このときも麦ワラ帽子の形をした飴玉入れなんかをデザインしました」

やなせの詩集を出すため、サンリオに出版部が

ドラマでは、嵩の詩にほれ込んだ八木が出版部を立ち上げる。しかし、実際にはやなせが自費出版するつもりだった原稿を見せたところ、「出版して書店で売りましょう。任せてください」と言い、社員や銀行の反対を押し切ったようだ(『人生なんて夢だけど』)。