「秀吉」=「猿」を裏付ける文書?
「サルめ、やりよるわ!」
時代劇で信長が、そうつぶやいたりする。
豊臣秀吉がまだ身分の高くない時代に「サル」と呼ばれていたことは、あたかも歴史的事実のように広く認識されているが、実は、若き日の秀吉がそう呼ばれていたことを示す史料の多くは後世に書かれたもので、歴史的な裏付けは、実は無い。
いや、実は唯一、秀吉が信長から「猿」と呼ばれていた……かもしれない文書が一通だけ遺されている。
肥後熊本藩主細川家に伝わる「織田信長黒印状」(永青文庫蔵・重要文化財)である。
天正六(1578)年のものと思われるこの文書は、信長から長岡兵●(部、こざとへんのみ)大輔(細川藤孝)、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、瀧川左近(滝川一益)、惟任日向守(明智光秀)に宛てたもの。
猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、
又一若を差遣候、其面無油断雖相聞候、猶以可入勢候、
各辛労令察候、今日之趣徳若ニ可申越候也、
三月十五日 (天下布武朱印)
長岡兵部大輔とのへ
惟住五郎左衛門尉とのへ
滝川左近とのへ
惟任日向守とのへ
内容は「猿が帰ってきて、昨夜の様子をつぶさに言上した。まず、そのようにすることが大切である。一若を差し遣わすので、その向きは油断なく聞くことであろうけれど、なお以て入念に当たって欲しい。各々の心労のほどは察する。この趣は徳若にも伝えて遣わすものである。」というもの。
要件は「使者である一若と徳若から聞いてくれ」ということで、この文書だけではサッパリ意味が解らないが、一応、時代背景は判明している。
肥後熊本藩主細川家の家譜『綿考輯録』一(藤孝公)によると、この信長文書は天正六(1578)年の丹波攻めの際に発給されたもの。『信長公記』天正六年四月十日条には「滝川、惟任、惟住両三人丹波へ差遣はされ」という記述があり、また細川藤孝にも丹波攻めが命じられていた。
そんな彼らに信長は「猿が帰ってきて、昨夜の様子を詳しく報告した」というのである。この「猿」は秀吉だろう、と飛びつきたくなるのも歴史好きの人情だろう。
しかし、である。
天正六年の三月、秀吉は播磨にあって、三木城に籠る別所長治を攻めている真っ最中であった。その秀吉が、わざわざ信長のいる安土に帰って、さらに丹波攻めに有効な情報を伝えたとは、ちょっと考えにくい。
それに、この時の秀吉は、かつての木下藤吉郎ではない。既に信長の幕僚たる武将のひとりであり、官途もいただいて羽柴筑前守となっている。本人相手になら「猿めェ」などと呼びかけることはあったかもしれないが、他の幕僚へ宛てた手紙の中で、同僚の幕僚を貶めるような呼び方はしないはずである。

