昭和23年12月23日午前零時すぎ、巣鴨プリズンで絞首刑の後

絶命した7人の遺体は午前2時10分にトラックに載せられて出発。午前3時40分頃に横浜市の米軍第108墓地登録小隊(現横浜緑ケ丘高)に到着して、遺体は仮置きされた。午前8時すぎには同市内の久保山斎場に運ばれ、火葬された。

東京の巣鴨拘置所、1949年
東京の巣鴨拘置所、1949年(写真=DerrickPerrin.com/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

7人の遺骨はそれぞれ別の骨壺に入れられた。そして当日のうちに米軍機で相模湾沖30マイル(約48km)に運ばれ、先述の少佐らによって上空から太平洋にばら撒かれたのだ。指令文書には、「殉教者化を防ぐため墓を設けることを避け、遺灰を海に処分せよ」と明記されている。

つまり、7人は「水葬」にされていたのだ。B・C級戦犯に関しても、横浜裁判とマニラ裁判を受けた日本の軍人の一部は、水葬されたと報告されている。GHQは日本国内に「殉国者」の墓をつくらせなかったのだ。