一念発起して猛勉強を開始、大検を経て大学の政治学部に進学した。途中で法学部に転部。手形小切手法のゼミで新しい「証券化」の考え方に触れた。

「最初は法学部で弁護士になろうと考えていたのですが、もっとダイナミックな仕事をしたいと思い始めていました。ただ、遠回りしたので人より3年遅い。日本企業は年次ですべて決まってしまうため、外資系企業を狙うしかない。モルガン・スタンレーのニューヨーク本社の幹部に手紙を送って直訴したところ、『売り手市場の日本から学生が直接アピールしてきたのは初めて』と目にとまり、投資銀行部門に潜り込むことができました。

最初の1年間は使い物になりませんでした。投資銀行部門はエリートの集まり。ところが自分は語学も数学もできなかった。でも逆に、それがよかったのかもしれません。2年目に海外ソフトウエア企業の日本進出を手伝うことになりました。誰もが敬遠した仕事ですが、ニッチで勝負するしかないと腹をくくっていたので必死に取り組みました」

日本のPC業界の独特な商慣行と業界の販路地図を調べ上げ、水谷の仕事はシリコンバレーでも大反響を呼ぶ。3年半勤め、米ハイテク大手からは日本法人社長への誘いもあったが、転職先として選んだのはGEの子会社で証券化商品や仕組み債に強いキダー・ピーポディだった。

「最初はめちゃくちゃでした。ボンド(債券)の買い方も知らない素人でしたから。だから、最初から白旗をあげて、すべて実地訓練で教えてもらっていた。結果として、講義や教科書からスタートするよりも実践的な知識が身につき、のちの商品開発のバックボーンとなりました」