「厳しい指導が必要」は一理ある

繰り返すが、スポーツ現場で暴力行為がなくならない根底には、「スポーツでの上達には厳しさが必要だ」という信憑がある。上達に不可欠な厳しさを醸成する手段として、暴力行為は機能する。そう私たちは無意識的に信じている。社会通念では許されないはずの暴力行為が、スポーツ現場でいともたやすく見過ごされるのは、それが上達や成長に資すると信じられているからである。

この信憑には、実は一理ある。

なにをしても怒られない、いわばラクラクこなせる練習よりも、至らない点を事細かに指摘される厳しい練習のほうが上達を促す。手放しですべてを肯定する生ぬるい環境は子供を甘やかすことにつながり、競技力の向上にも心身の成長にも資することはない。生ぬるさよりも厳しさこそが人を成長させるのは、確かにその通りである。

だから子供にたくましく育ってほしいと願う親は、無意識的に厳しさを求める。褒め殺されるよりも、困難を乗り越えられる力を身に付けてほしい。少々のことではへこたれないタフさを、スポーツを通して身に付けてもらいたい――。

やがて自分の手元から離れゆく子供の自立を促すのは親の役割で、だから生ぬるさよりも厳しさを求めるのは、至って自然な考え方である。

理不尽な指導では人生を生き抜く「タフさ」は身に付かない

だが、ここには細心の注意を払わなければならない。暴力行為も厭わない厳しさによって身に付く「タフさ」とは、いったいどのようなものなのかということである。

結論から言えば、暴力行為が伴うほどの理不尽な指導では、人生をたくましく生き抜くために必要な本当のタフさは身に付かない。

暴言や暴力行為が伴う指導は子供に恐れを抱かせる。この恐れという感情を巧みに利用し、半ば強制的に意欲を醸成する指導法である。うまくできなければ怒られるから仕方なく練習をするという仕方で、子供たちを焚きつける方法だ。

この方法は、いつも何かに急かされている状態に子供を縛り付ける。いわば過緊張の状態に置くということである。ここでは「冷静さ」が奪われるとともに、事の善しあしを指導者の価値観に委ねざるを得ない。知識や経験を駆使して自ら思考を繰り返して導き出すよりも、指導者の考えに沿っているか否かが重要視され、たとえ逆立ちしたって納得できない考えだとしても、無理やりにのみ込まなければならない。

こうした状況に置かれれば、人はフリーズする。どうしたって納得できないことをのみ込むためには、思考を停止させる必要が生じる。自ら考えることをやめて他者の価値観をそのまま受け入れる。これは自分を騙すことであり、内なる声を無視して自らを宥めすかすこの心的経験は、自分ではない何者かになることを受け入れることにほかならない。