筋を通したことで、深い関係性を築けた
また、この総裁選では、「角福」陣営には、それぞれにしがらみのある“迷える議員”が多々いた。田中とのしがらみはあるものの福田への信奉者もいたし、その逆の議員もいた。
あるいは、田中と同じ新潟県の出身ながら、選挙区は「福田王国」と言われた群馬県にあるといった議員もいた。そうした中に、福田系と色分けされた中曽根派の長谷川四郎、長谷川峻という二人の議員がいた。
共に、心は揺れたが福田とのしがらみは強い。筋を通すことでも知られていたこの二人は、田中のところにわざわざ仁義を切りに出向いた。田中に、“了承”を求めたのである。
「決選投票では、今回は福田さんに投票させて頂くつもりです」
このとき、田中はこだわりを見せずにこう言った。
「友情は友情だ。君はそういう立場にいるんだから、福田さんに投票しなさい」
総裁選がすんだ後、この2人の議員と田中の関係はそれまでと何ら変わるものはなかったのだった。むしろ、信念に敬意を表した形で、田中は自らの内閣で長谷川峻を労働大臣に抜擢した。長谷川峻もそうした田中に報いたか、その後、終生、陰になり日向になり、“隠れ田中派”を貫いたものだったのである。
後援会の中から“造反者”が出てしまった
徳川家康。この人物も、「公私」のけじめには厳しかった。こんなエピソードがある。駿府城にいた頃、城の庭の池の水の入りが悪く、そんなとき部下がこう言った。「新しく水を引きたいと思います。途中、小さな寺がありますが、水を引く障害になるので代替地を与え、場所を動いてもらおうと思いますがいかがでしょうか」しかし、家康は、キッパリと言ったのだった。
「それは、ならぬ。池に水を引くことはオレの私事だ。寺をよりどころにしている民を混乱させるわけにはいかない。池の鯉には少し我慢してもらって、別の方法を考えるべし」
「公私」のけじめに厳しく対処できる人物は、気高さを感じさせる。気高さを前にした人は、異論をはさんでくることが少ない。「公私」のけじめなき気配りは、存在しないと言っていいようである。
組織内から造反者が出る。機密、秘密が持ち出される可能性もある。このとき問われるのが、組織のリーダーの器量でもある。昭和55年6月の衆参ダブル選挙で、当時の田中の選挙区だった旧〈新潟3区〉から桜井新という若手が立候補した。
桜井は早稲田大学理工学部在学中から、東京・目白の田中邸で書生として勤めていた。やがて、新潟県南魚沼郡(当時)六日町で土建業を経営、一方で県会議員をやるかたわら田中の後援会「越山会」の青年部長として、組織固めの才能を発揮していた。言うなら、田中の片腕でもあったのである。昭和55年と言えば、折から田中がロッキード裁判のさなかにあり、いかに田中とはいえ、このときの選挙は危機感に溢れたそれであった。
ところが、こともあろうに「越山会」の中から、“造反者”としてこの桜井が出馬の手を挙げたのである。