潰そうと思えば潰せた新人をあえて無視した
「山口県でも岸信介、佐藤栄作の兄弟が骨肉の争いをしたということもある。田中先生をいまでも尊敬しているが、選挙は別だ。『政治の再生』『人心の一新』を掲げる」というのが、桜井の“出馬の弁”であった。
筆者も、このとき〈新潟3区〉の選挙内を取材したが、桜井は拠点の南魚沼はもとより大票田の長岡市にも後援会事務所を設立、必勝態勢で臨んでいたものだった。長岡市は、田中の“牙城”でもあったのである。ところが、逆に田中は公示の前も後も、桜井の拠点の南魚沼には入らなかったのだった。
政界の大実力者が時に街頭で新人候補とやり合うなどは、とても田中にはみっともなくてできかねるということのようでもあった。結果、田中は“指定席”のトップ当選、桜井も初出馬にして当選を果たした。
それから約3年後の昭和58年5月9日、田中はその後初めて南魚沼郡六日町に入った。時局講演会に出席のためである。
「これまで南魚沼へは意識的に入らなかった。桜井君が出たからだ。しかし、もう一人前になったから入ることにした」
そう挨拶、万雷の拍手を浴びたものだった。田中と桜井の間で、果たして選挙地盤の“棲み分け”がデキていたのかどうか、いまにしてその真相は分からない。しかし、潰そうと思えば一発で潰せたであろう田中が、あえてこの新人候補の足を引っ張らなかったことだけは事実だった。
実刑判決を受けても圧倒的なトップ当選を果たす
こうして久しぶりに南魚沼に入ってから5カ月後、ロッキード裁判一審判決が出、田中は懲役4年の衝撃的な実刑判決を受けた。
その苦境の真っ只中で、その約1カ月後に総選挙があった。結果は、ロッキード事件の余波を受けて自民党は惨敗、しかし田中自身は22万票という“オバケ票”を取ってトップ当選を飾ったのだった。
22万という票が、いかに凄かったか。〈新潟3区〉全立候補者が集めた票のじつに47パーセントにあたり、2位から5位の当選者の合計が18万票に過ぎなかったことで明らかだった。とりわけ、南魚沼郡は桜井がいたにもかかわらず、田中にも多くの票が出たのである。
「“造反”と言われた桜井の初陣に、田中さんは目をつぶってくれた形でこの南魚沼には入らなかった。先生の大きさを改めて見た。こんどは、苦境の先生をわれわれが後押ししたのは当然でしょう」とのちに語っていたのは、南魚沼郡の元「越山会」幹部である。配慮に満ちたリーダーの器量、かくありきということであった。