いわくつきの家で精神を病んでいた?
ますます後悔した源内は短刀を抜いて腹を割こうとしたが、このとき知人の丈右衛門が止めに入ったので、自殺できずに入牢することになった。それにしても、あまりに感情にまかせた衝動的な行動だ。一説には、精神を病んでいたのではないかといわれている。
源内の出身藩(高松藩)で後に家老となった木村黙老は、その随筆『聞くままの記』で、晩年における源内の異常な言動に触れている。
同書には、源内は引っ越し好きで生涯に十数回転居したが、盲人(神山検校)の旧宅に移って半年後に精神的に不安定になって殺人に及んだと記されている。
この神山検校は、あくどい金貸しで悪事を働いて野垂れ死んだ。死後は毎夜、自分の屋敷に幽霊となって現れ「ここにあったのに、見当たらない。見当たらない」と新住人に金のありかを尋ねるとのもっぱらの噂だった。
だから検校の旧宅は人が住まなくなり、空き家になってからも久しく売れなかったので、売り値が安くなった。それを知った源内は、人が諫めるのを聞かず、家を買ったのである。
一説によれば、神山検校の旧宅に移った頃のこと、弟子の森島中良が共同で脚本を書いた人形浄瑠璃『白井権八幡随長兵衛驪山比翼塚』が大当たりした。普通なら師匠として弟子の成功を褒めてやるべきなのに、源内は自分の作品が不人気だったことに腹を立て、なんと中良のもとに押しかけ、罵詈雑言を浴びせたという。
獄中で50年余りの生涯を閉じた
中良は幕府の奥医師・桂川家に生まれたボンボンで、兄の甫周は『解体新書』の翻訳にも参加した有名な蘭学者で、漂流してロシアから戻ってきた大黒屋光太夫の聞き取り調査をおこない『北槎聞略』としてまとめ、将軍家斉に献上した人物だ。
幽霊のせいか、中良を叱りつけた10日後の安永8年(1779)11月21日、とうとう源内は殺人を犯してしまったのである。
入牢した源内は、翌月の12月18日、喧嘩のさいについた傷口からばい菌が入った(破傷風か)とされ、体調を崩して獄中で死んでしまった。一説には、殺人を犯したことを悔いて絶食して死んだともいう。享年51歳であった。
遺骸は、妹の夫で従弟にあたる平賀権太夫らが引き取り、浅草の総泉寺に埋葬された。その後、総泉寺は他所へ移ったが、源内の墓石は同地にあり、昭和3(1928)年に墓石の下から源内の遺骨を納めたと思われる骨壺も発見されている。
ちなみに蔦屋版吉原細見の序文は、源内の後を引き継ぎ、戯作者の朋誠堂喜三二が書くようになった。