「自分は学者としてやっていける」

こうして武士となった32歳の源内だったが、高松藩にこき使われたり、藩士として束縛されるのがほとほと嫌になり、宝暦11年に藩籍を抜けたい(武士をやめたい)と藩庁に申し入れたが、なかなか応じてもらえなかった。

ようやく半年後に許可が出たが、離藩のさい「仕官御構い」という条件を飲まされた。これは、旧主家(高松藩)による再就職の禁止措置であった。つまり、幕府や他藩に仕官する道が絶たれてしまうのだ。

けれど、この頃の源内は、「他家に仕官せずとも、自分は学者としてやっていける」という自信を持っており、その条件を受け入れて士籍を離脱したのである。34歳のときのことであった。

以後は本草学の研究に没頭できるようになったらしく、宝暦13年、源内は中国の本草学の成果をもとに独自の視点を加えて『物類品隲』全六巻を刊行している。

あふれる文才があった源内は、同時に俗文学である戯作にも手を染めるようになった。そして同年冬、『根南志具佐ねなしぐさ』と『風流志道軒伝』の二作を立て続けに発表したところ、これが良く売れた。

とくに『根南志具佐』は3000部も売れたという。当時の平均の10倍近い売り上げといえる。歌舞伎役者の荻野八重桐が大川(隅田川)で舟遊びをしていたさい、転落して水死した。この事件から発想を得て、地獄を舞台に滑稽さや風刺にあふれた内容だった。

これに味を占めたのか、さらに源内は滑稽本の『風流志道軒伝』、『源氏大草紙』や『弓勢智勇湊』といった浄瑠璃の脚本、果ては禁止されている好色本『長枕褥合戦』なども手がけるようになった。

歴史的偉業を果たした後、何があったのか

安永8年(1779)12月、源内は死んだ。病死ではなく、牢死であった。人を殺めて牢獄に入り、獄中で息絶えたのである。

源内は重三郎の吉原細見『嗚呼御江戸』に序文を書いてから2年後、エレキテルの実験で世間の話題をさらっている。

エレキテルは、摩擦起電機ともいい、静電気を利用し、四角い箱から突き出た金属の二本のヒゲの間に放電を起こして人の病を治すとされたヨーロッパ製の医療器具のこと。

平賀源内のエレキテル(複製)
平賀源内のエレキテル(複製)(画像=Momotarou2012/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

源内は壊れたエレキテルを長崎で譲り受け、職人の弥七に細工をさせて7年もの歳月を費やし、安永5年にようやく復元に成功したのである。

そして、このオリジナル品をもとにいくつかエレキテルの複製品をつくり、それらを見世物にして金を稼ぎはじめた。エレキテルから電気や火花が出るとのことで評判となり、ついに大名家までもが源内に実演を所望するまでになった。